黎明皇の懐剣
「ティエンに言ったら悲しむんだろうな、とか……人間じゃなくなったら、俺、どうなるんだろうな……とか、いっぱい考え込んじゃって。ちっとも眠れないんだ。身も心も懐剣に近づいていることが怖くて」
冷たい夜風が吹き抜け、身震いする。
外衣を羽織っていないユンジェに気付いたカグムが、自分の外衣を広げると、その中に入れてくれた。そこはとても温かかった。
「ピンインの懐剣になったこと、後悔していないか?」
くしゃくしゃに頭を撫でてくるカグムから、やめたいと思ったことはないのか、と聞かれる。
ユンジェはひとつ首を横に振った。
やめたいと思ったことはない。悔いもない。
懐剣のお役に恐怖したことはあれど、それを投げ出そうと思ったことはなかった。
ティエンに最後までついて行くと言ったのはユンジェなのだ。その約束を違えるつもりはない。
なにより、誰からも死を望まれている彼の傍にいたかった。
周りがなんと言おうと、ユンジェはティエンに生きて欲しいのだ。ティエンを守れるなら、彼の懐剣になっても構わない。懐剣を抜いたことに対する後悔もない。
でも。人間を捨てるつもりもなかった。
ユンジェはユンジェのまま、ティエンの傍で生きていたい。平和に静かに暮らしたい。
そう思うのは麒麟の使いとして、あるまじきことなのだろうか。贅沢な願いなのだろうか。ユンジェは答えを見出せずにいる。
ひざ元に置いている懐剣に目を落とせば、黄玉に宿る麒麟の加護が、ぼんやりと光り揺らめいている。
「戦いにおいて、心ってのは邪魔になりがちだ」
カグムがこんなことを言ってくる。顔を上げると、彼は夜空を仰いでいた。
「敵に同情が芽生えれば、剣を振るう手が鈍る。命を奪えなくなった結果、自分がやられるってこともざらだ」
強い兵士ほど、戦の間は心を鉄にするものだとカグム。一瞬の判断が大きな失態を呼びかねない。自分だけでなく、仲間や国が危機に陥るやもしれない。
それゆえ、腕が立つ者ほど己の心を封じる。
ユンジェは、それに当てはまるのかもしれない。お役を果たすために、本能が心を捨てるよう強いているのかもしれない。セイウと交わした儀で、それが顕著に出ているのだろう。
視線を戻すカグムは、乱れているユンジェの髪を手で梳き、そのように指摘した。
「なら、カグムもそうなの? カグム、強いじゃん」
「そうだな……思うことはあるけど、割り切っているよ。俺には俺のやるべきがあるからな。それはきっと、ハオも同じだ。まあ、あいつはすぐ感情を表に出しちまうけどな」
ハオは強いが兵士向きではない。あれはすぐ、人に情を移してしまう。それが彼の良いところでもあると、カグムは肩を竦めた。
「懐剣の所有者がピンインである限り、ユンジェは人間でいられるさ。心を忘れかけたら、ピンインがなんとかするだろうよ」
そうなのだろうか。ユンジェは素直に言葉が受け止められずにいる。
「ピンインは、ユンジェの鞘になってくれるよ」
「俺の鞘?」
「お前はピンインの懐剣だ。向かってくる災いを、その刃で切り裂く。けど、刃ってのは常に剥き出しってわけじゃねーだろ? 俺の太極刀だって、使わない時は鞘に収めている。誰も傷付けないように、刃毀(はこぼ)れしないようにな」
同じようにきっと、ティエンもユンジェの鞘として守ってくれることだろう。
心を忘れそうになったら、何度だって思い出せるよう手を尽くすはずだ。
あれはもう、何もできないピンイン王子じゃない。物を考えて行動を起こす男ティエンなのだから。
確かにユンジェは懐剣を抜く度に、常人離れした動きを見せる。凍てついた目で災いを切り裂き、所有者を守る。鬼となり、化生となる。
その姿はカグムでさえ、少しばかり恐怖に感じる時がある。
けれど。
「情けない顔で悩んでいるユンジェの姿を見ていると、年下のガキだって思える。今のお前なら、俺でも勝てそうだ」
「俺、不意打ち以外で、カグムを負かしたことないんだけど」
「ちゃっかりと『不意打ち』を付けてくれるなよ。悪ガキ」
笑声を噛み殺すカグムにつられて笑い、ユンジェは両手に持っている懐剣を帯に差す。なんだか、気持ちが少しだけ軽くなった。悩みを打ち明けたからだろうか。
「それにしても、ユンジェはすごいな」
「すごい? 懐剣になったことが?」
「ははっ、違うよ。何が遭ってもピンインを責めず、信じて、守り抜く心を持っているところ。普通責めちまうもんだぜ? 故郷を失い、家を失い、王族の下僕になったらさ」
それをしないユンジェは、とても強い男だとカグムは褒め、自分には到底真似できないと苦々しく笑った。
故郷を失った時点で、ティエンをとても恨んでしまう。
彼自身のせいではないと分かっていても、彼の取り巻く環境や身分、呪われた王子の異名から、責め立ててしまうとのこと。
なんとなく、カグムの本心に触れている気分になったのは、なぜだろう。普段であれば、表裏ある顔で本音どころか、心すら見せてくれないというのに。
もしかするとミンイという兵士を天へ見送ったことで、少しだけ気が弱っているやもしれない。そんな気がした。
間を置いて、ユンジェは答えた。
「だって。あいつがいなくなったら、俺はまた独りになるから……ティエンを失うことを考えたら、そんなこと小さく思えるよ」
ユンジェがティエンを守っているのは、彼だけのためじゃない。ユンジェのためでもある。