黎明皇の懐剣
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かつて、ここまで頭を悩ませる事態があっただろうか。
ユンジェは四人分の皮袋に、冷たい川の水を入れると、駆け足でみなの下へ戻る。
本日の野宿場所は雨風凌げる岩穴。
そこは硬い石や砂利、蛇なんかが多いため、あまり寝床に適しておらず、雨の日以外は利用しない所なのだが、今日は晴れても岩穴でなければならない理由があった。
まだ真上にある太陽を浴びながら、岩穴に戻ったユンジェはたき火の加減を確かめた後、寝込んでいるティエンに声を掛けた。
「ティエン。水を汲んできたぞ。飲めそうか?」
両膝をついて、顔を覗き込むと、真っ赤な顔をしたティエンが乾いた唇を動かした。
耳を近付けると、水が欲しいと返事している。皮袋を口元に運んでやると、力を振り絞ってそれを飲んだ。ティエンはいま、高熱に魘されている。
それだけならまだ良い。問題はもう二人、病人がいることだ。
「カグム。水、飲めそうか?」
「ああ、なんとか。そこに置いててくれ。自分で飲むよ」
体を起こそうとするカグムが、まったく動けていないので、優しく手を貸してやる。
彼は申し訳なさそうに眉を下げ、皮袋の水を飲んでいた。始終、気だるそうであった。
「ハオ。水は?」
「声掛けてくんじゃねーよ。頭いてぇ」
気が立っているハオにため息をつき、黙って皮袋の飲み口を差し出す。
何も要らないと意地を張る彼だが、そう時間も置かず、観念してユンジェに世話された。動けないのは明白であった。
「はあ。参ったなぁ。ティエンさまだけでなく、俺やハオまで高熱を出すなんて」
カグムのぐったりとした声が、昼間の岩穴に響く。
勿論、その台詞を言いたいのは誰でもないユンジェである。
まさか、だいの大人が揃いも揃って高熱で倒れるだなんて、ああ、夢にも思わなかった。ティエンはともかく、兵士のカグムやハオは体躯も良く、剣の腕もあるので、ちょっとやそっとじゃ倒れないと思っていたのに。
おかげでユンジェは、今朝から水汲みだの、薪集めだの、病人食だの、てんてこ舞いである。
ちなみに、これの原因はすでに分かっている。
「天降ノ泉。行くべきじゃねーかな。みんなの熱、麒麟のせいだと思うんだ」
ユンジェは片手鍋の中で沸騰している粥を覗き込み、木の匙で中身をよくかき混ぜる。うん、程よく蕩けている。食べごろだろう。
「ここ数日。雨が続いたり、土砂で道が塞がったり、やたら賊に襲われたり……散々な目に遭ったのも麒麟の導きによるものだと思うんだけど」
粥に一つまみの塩を入れて、病人達に粥ができたことを知らせる。誰ひとり、食べたいと言わなかったので、ユンジェの分のみ昼餉を用意する。
話は麒麟の夢を見た日まで遡る。
神託を賜ったユンジェは、所有者に天降ノ泉で麒麟が待っていることを伝え、直ちにその場所へ向かおうと意見した。
これまでも麒麟が夢に現れ、ユンジェに何かしらのことを伝えてきたので、今回もそれに従うべきだと考えたのである。
けれども。ティエンを筆頭に、みなから天降ノ泉へ行くことを反対されてしまう。
なぜなら最近、天降ノ泉をめぐり、将軍グンヘイが兵を動かしたと宿屋の娘から話を得ている。今行けば、きっと将軍グンヘイや周りの兵に会うに違いない。
そうでなくとも天降ノ泉は、王族と深く関わる土地。
赴けば、必然的に青州兵と鉢合わせになり、セイウ王子らに捕らえられてしまう。天降ノ泉に行くのは危険だと、みながみな口を揃えた。
その時のユンジェは、反対されてしまったのでは、どうしようもないな、で終わっていた。自分は神託を賜っただけの身分。旅路の変更を貫き通す立場ではない。指揮を取っているカグムが駄目と言えば、引き下がるしかないのである。
片隅で麒麟の言うことを聞かなくても良いのだろうか、と懸念を抱いたが、みなの意見に従った。
するとどうだ。
宿を発ってから、やたら不幸な目に遭う。
最初は土砂降りの雨に襲われた。通り雨ならまだしも、数日も雨が降ったので、岩場で野宿する羽目になった。
その次は雨による土砂崩れだ。通りたい細道が、土砂で塞がれてしまい、大回りする羽目になった。
その頃からティエンの体調が崩れ、発熱してしまう。誰もが雨によるものだと思っていたのだが、間もなくハオの体調も崩れ始めた。
揃いも揃って風邪だろうか。
心配していた矢先、賊に襲われ、一行は逃げ回る羽目になる。追い詰められた際は、どうにかカグムが剣を振るって、それらを斬り倒したものの、ユンジェは彼の蒼白な顔色に気付き、急いで休めそうな場所を探し回った。
それがこの岩穴だ。
此処はある程度平らで、蛇や毒虫がおらず、風通しが良いのでたき火も焚ける。さらに場所が『岩穴』なので、獣や敵襲を受ける場所が限定できる。病人らを休ませるには最適の場所であった。