黎明皇の懐剣
奇襲を仕掛けてくる賊の殆どは悪意がある、というより、生きるために襲う者達ばかり。リャンテはそれに当てはまらないので、賊には見えない。
努めて冷静に返事すると、リャンテが興味あり気にユンジェを見つめ、意味深長に笑った。
「ガキ、身分は?」
「農民。でも、今は持ち家も畑もないから、農民とは言えないや。なんて言うだろう」
田畑も畑仕事もしていない農民を農民と言えるわけもない。
ユンジェは改めて今の自分の身分は何だろう、と考える。如いて言えば、旅人だろうか。旅人は身分に入るものなのだろうか。知識の乏しいユンジェは、うんっと首を傾げてしまう。
結局、よく分からないと答えた。農民だが畑仕事も何もしていない旨を伝え、今は家なしであることをリャンテに伝える。
すると。彼は面白おかしそうに口角を持ち上げて、上等な頭陀袋に手を入れた。間もなくユンジェに向かって、一枚の硬貨を投げられる。
「農民のくせにひと目、身なりを目にしただけで、俺の身分をそこまで見ることができるなんざ、貴様はとても面白い目を持っているな。俺は貴様みてぇな、頭の回るガキは嫌いじゃねえ」
反射的に硬貨を受け取ったユンジェは、両手の平を広げ、目を瞠ってしまう。
そこには金色に輝く硬貨。金貨だ。大金だ。これ一枚で一ヶ月分の食事は賄える。いや、もっとかもしれない。
「俺を満足させた褒美だ。受け取っておけ」
草深い藪から数匹の馬が現れる。
どうやらリャンテの付き人らのようで、手綱を引くや、リャンテの無事を確認してきた。おおよそ白州兵であろう、その者達は事切れている悪漢どもを一瞥すると、リャンテに先へ急ごうと進言している。目と鼻の先に、青州兵がいるらしい。
「リャンテさま。青州兵が我々の動きを嗅ぎまわっているようです」
直ちに退散しなければ厄介事になる。付き人のソウハが険しい顔を作った。ユンジェに目もくれないのは余裕がない証拠だろう。
「ほう。セイウの野郎、宮殿に引きこもっているわりに視野が広いな。もう、俺達の動きを掴みやがったか。わざわざ、みすぼらしい格好をしたっつーのに。ちと、あいつを見くびっていたな」
リャンテは敵数を尋ね、隙あらば『賊』として返り討ちにしてやろうと笑みを深める。たいへん好戦的な男は、少しでも長く剣を振るいたいようだ。
しかし。ソウハに目的を忘れないように、と注意されたことで、王子の機嫌が下がってしまう。どうやら自分の思ったように動きたい、我儘男らしく、口煩く言われたくない性格のようだ。
とはいえ、癇癪を起こすほど愚かな男でもないらしい。舌打ちを鳴らすと、馬の手綱を引いて方向転換する。その態度が進言を受け入れたと示していた。
(いや、ちょっと待て。いま、青州兵って言ったか? まずいじゃんか!)
金貨を握ったまま、ユンジェは見る見る青ざめていく。
青州兵が近くにいる? 冗談ではない。いま、大人達は揃いも揃って高熱に魘されているのだ。見つかれば最後、ティエンらは捕まり牢獄行き。ユンジェはセイウの宮殿行き。飾られてしまう!
藪の向こうから哮けりが上がる。
進めと、囲めと、挟めと聞こえてくる声は、本当に近い。リャンテが馬の腹を蹴り、兵に号令を掛けるのと、追っ手兵の襲撃はほぼ同時であった。
ああ、朝っぱらから、とんでもないことになった。なんてものを引き連れてくるのだ。
ユンジェは青州の騎馬兵を目にするや、洗ったばかりの布に手を伸ばし、ふたたび川の水に浸した。
今のユンジェの持ち物は、リャンテに貰った金貨と、帯に差した懐剣と、病人達に使用した布のみ。道具の大部分は岩穴の中だ。岩穴には病人の大人達がいるので、下手に戻ることはできない。
さらに言えば、懐剣を使うことも選ばなければ。リャンテらにティエンの懐剣であることがばれてしまえば、それこそ騒動だ。
(いや、ばれるのも時間の問題か)
騎馬兵がユンジェの顔を知っていれば、一巻の終わりだ。どうか、自分の顔を知らない兵達でありますように。
リャンテの仲間だと思われたのだろう。ユンジェの背中目掛け、騎馬兵の剣が振り下ろされる。
かろうじて、その場を退いたユンジェは、濡れた布を川から引き上げ、力の限り、兵の小手を叩く。濡れた布は乾いた布で叩くより、数増しの威力を持つ。りっぱな笞となる。
叩かれた痛みに耐え兼ね、兵が剣を落とした。
急いでユンジェはそれを掴み、他方から向かってくる騎馬兵に向かってぶん投げると、大きく息を吸い、川に身を投げた。
命綱もなしに流れのある川に飛び込む行為は、とても危険だ。川の急流や藻に足を取られることもあれば、その水位の深さに溺れ死んでしまうこともある。
それでもユンジェは、そこへ飛び込むことを選んだ。少しで周囲の目から姿を晦ましたかった。
故意に頭まで深く潜り川に流される。
たくさんの水を飲みながら、どうにか岸に這いあがると、遠くにリャンテらと青州兵らが見えた。撒けただろうか。
と、青州兵らが指笛を吹き合い、数人がリャンテ達から身を引いた。
それらは追うべき相手に背を向けると一斉に方向を変え、川の流れに沿って馬を走らせる。慌ただしい空気は考えるまでもない。ばれたのだ。