黎明皇の懐剣


 ユンジェはふたたび川に入り、対向側の岸を目指して泳ぐ。


 少しでも、この場から遠ざからなければ。

 病人達がいる岩穴と川の距離は目の鼻先。もしも、彼らが騒動を聞きつけでもしたら。岩穴ではたき火を焚いている。小さな火種ですら、居場所を突き止められる可能性がある。ユンジェがやらねばならないのは、追っ手の青州兵らを遠ざけ、撒いて、病人達を守ることだ。

 とはいえ、水を吸った衣で泳ぐのは至難の業。鉛のように重く、自由に手足が動かない。

 さらに川幅が広いため、正直渡り切れる自信がない。気を抜くと力尽きて、溺れてしまいそうだ。

(もう、すこし)

 震える手を伸ばし、やっとの思いで岸付近に生えている(あし)の茂みを掴む。徹夜明けの体は、川を渡っただけで悲鳴を上げていた。体力には自信がある方なのだが、知らず知らずのうちに看病疲れしていたようだ。

 しかし。ここで力尽きては捕まってしまう。

 それだけではない。懐剣の所持者が危機に晒されてしまう。

 高熱に魘されているティエンの顔が脳裏に過ぎったユンジェは、決死の思いで(あし)を数本引き寄せると、それらをきつく捩じって強度を上げた。

 縄を作る原理で葦を束ねると力を振り絞って、岸に這いあがった。人間の重みに葦がぎしぎしと軋むが、どうにかユンジェが岸に上がるまで持ってくれる。千切れなくて良かった。


「子どもがそっちの岸に渡ったぞ。捕らえろ」


 心の臓が凍った。
 顔を上げると、三人の騎馬兵が迫っている。こちら側の岸にもいたのか。おおよそ、リャンテらを遠方から討つつもりだったのだろう。みな、弓を構えていた。

 内、一人が向かい側の岸から放たれた矢に首を射られ、悲鳴を上げながら落馬する。

 驚き振り返ると、向こう岸でリャンテが短弓を構え、口角を持ち上げていた。青州兵の包囲をくぐり抜け、ここまで追いついて来た様子。なんて奴だ。

「走れ農民のガキ。援護してやる」

 援護。助けてくれるというのか、あの男。

(何を肚のうちに隠しているんだ。ティエンの兄さん)

 だが、うろたえている場合ではない。ユンジェとて捕まるのはごめんである。

 残りの騎馬兵から逃げるため、がくがくと震えている足に鞭を打った。

 青州兵はユンジェの足元や、向こう岸のリャンテに矢を放つ。
 怖いもの知らずの第一王子は己に向かってくる矢を避けもせず、己の脇をすり抜けた頃合いを見計らって、矢を放ち返す。

 さすが戦場に赴く血気盛んな王子。ティエン並に、いやそれ以上に腕が良く、三本目にして敵の頬を射た。
    

 一本の矢が両頬を貫く光景は、中々に地獄図。その兵の顔を直視する勇気が出なかったユンジェは、思わず目を逸らしてしまう。

 落馬の音を合図に足を止める。

 倒れる兵を一瞥した後、向こう岸にいるリャンテに目を向けた。第一王子は背中に朝日を浴びているため、逆光で顔が見えない。いま、どんな顔をしてユンジェを見ているのだろうか。

 いやいや、ぼさっとしている場合ではない。これは絶好の機会だ。


 一方、見送ったリャンテは楽しげに口端を舐め、ゆるり短弓を下ろす。子どもの顔はしかと憶えた。

(青州兵がちっぽけな農民のガキを追うなんざ、理由は一つしかねえ。が、俺の身分に『見て見ぬ振り』をしたガキに免じて、俺も見て見ぬ振りをしてやるさ)

 それに、ここで簡単に手に入れても面白くない。
 やはり奪い合う中で、我が物にする快感がなければ。血のない奪略など興ざめもいいところだ。せっかく三兄弟、程よい争いが始まっているのだから、もっと盛り上がってもらいたいもの。

 なにより。



「手に入れる前に、懐剣のまことの姿とやらを拝まないとな。俺に相応しい懐剣であることを願っているぜ、リーミン」



 
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