黎明皇の懐剣


 そして、それが本当に叶った時、ユンジェはどんな顔をすればいいのか分からなくなる。
 嬉しいとか、驚いたとか、そんな感情は吹き飛んでしまった。

 暗い天幕の内で、己を見つめてくる美しい顔と向かい合い、いつまでも呆けてしまう。
 やはりこれは、夢なのではないだろうか。ティエンがこんなところにいるはずがない。彼は別の天幕で療養しているはずなのだから。

 なのに。ユンジェが口を開けた瞬間、ティエンの長い人差し指が制してくる。

 その指が天幕の入り口に向けられた。
 耳をすませると、男達の焦った声が聞こえてくる。ピンイン王子はどこだ。なぜ天幕にいない。見張りは何をしていたのだ――と。


「お、お前っ。黙って抜け出してきたのかっ」


 いや手始めに意識を取り戻していたのか、と言葉を投げるべきか。
 いやいや、まずティエンが此処にいる意味を問うべきか。

 ユンジェは混乱してしまう。寝起きの頭では、何も考えられなかった。

 そんなユンジェを目で笑い、ティエンが答えた。いつものようの目で訴えるのではなく、己の口で、声で、言葉で、はっきりと。

「こうでもしないと、お前に会えないと思ったんだ。私は誰よりも、一番にユンジェに会いたかった。今のように向かい合い、言葉を交わしたかった」

 ティエンは少し前から、目を覚ましていたそうだ。しかし、天幕を抜け出す機会を窺うため、眠る振りを続けていたという。

 何故なら、周りの人間がユンジェと会う邪魔をすると分かっていたからだ。

 彼は天幕の内から聞いていた。
 ユンジェが必死になって、ティエンに会わせて欲しいと頼み込み、それを断り続けられた一連の流れを。

「兵は誰ひとり、お前を通そうとはしなかった。ユンジェは私の大切な恩人で、家族だというのに……だったらもう、私から行く他に手はないと思ってな」

 それがこの騒動らしい。
 今頃、天幕の外ではピンイン王子が姿を消したことに、てんてこ舞いになっているはずだ。彼は面白おかしく語った。

 だが笑い話では済まされない。ユンジェは血相を変えた。

「なっ、なに無茶をしているんだよ。お前、傷を縫っているんだぞ。下手に動けば、傷が開くかもしれないのに。時間が経てば、俺に会う機会なんて、いくらでも作れたじゃないか」

「私はお前と違って、我慢が苦手なんだ。ユンジェの下に行くためなら、無茶だってするさ。さあ、少しは褒めておくれ。叱られてばかりでは、私の努力が報われないだろう? 感謝してくれてもいいぞ」

 なんとまあ、口を開けば偉そうなこと。偉そうなこと。

 ユンジェが想像していた以上に、ティエンは上から物を言う男であった。

 さすが高い身分にいる男。まったくもって可愛げない。口が利けない方が、まだ可愛げがあった。

 頭の片隅で毒づくも、そんなティエンでも良いと思う自分がいた。
 だって、目を覚ましたティエンがそこにいるのだ。これ以上に何を望むというのだろう。

「あ、あのさ」

 ユンジェは真っ先に謝ろうと思った。いや、先に心配の言葉を投げようと思った。違う、懐剣や麒麟の話を振ろうと考えた。

 その結果、何も言えずに失敗してしまった。
 言葉が出ないのだ。どうしたって喉元で突っかかってしまう。喉の奥が燃えるように熱く、苦く、しょっぱい。

「おっ、おれ。ティエンっ……けがっ……」

 やっとの思いで言葉を絞り出すも、「ユンジェ」と、名前を呼ばれてしまい、また失敗してしまう。謝れると思ったのに。

 忙しなく肩を上下に動かしていると、ティエンが背中を擦ってきた。

「目を覚ました時から、ずっと懸念していた。お前のことだから、色んなことを背負い込んで、心に溜め込んでいるんじゃないかと。自分を責めているんじゃないかと」

 本当に気が気ではなかった。彼はす、と目を細める。
< 34 / 275 >

この作品をシェア

pagetop