黎明皇の懐剣


(俺達は一体、どれだけ逃げ回る日々を過ごすことができるんだろう。敵はクンル王に、天士ホウレイに……いつまでも逃げ切れると思えない)

 そっと身を起こし、ユンジェは宙を睨む。
 追っ手の数は多い。あてもない旅を続けるより、人里離れた山奥にでも身を隠し、静かに暮らしていくべきだろう。もしくは他国へ逃げてしまうべきか。

(現状、謀反兵は俺達をしつこく追っている。王族もいつ動くか分からない。国を離れるのが一番だろうな)

 ユンジェの思考を止めたのは、絹を裂くような悲鳴であった。
 その声は確認するまでもなくリオのもの。外へ飛び出すと、ジセン達のいる平屋の方角に、小さな赤い点が見える。あれは松明だ。

 それだけではない。桑畑から複数の馬の足音と松明の炎が見えた。これはまさか。

(追っ手かっ!)

 血相を変えて走ると、先に家屋を飛び出したジセンが、屈強な男に担がれているリオを取り戻そうと掴みかかっていた。

 しかし、彼は膝を悪くしている。
 それだけでも分が悪いというのに、相手は腕っぷしのありそうな大柄な男。真っ向から向かって勝てるはずがない。

 太い腕を活かし、易々と彼を引き倒して、その両膝を踏みつけていた。それを見たリオが悲鳴を上げ、四肢をばたつかせ、必死に男から逃れようとしている。

 さらに驚く光景を目にする。


「ティエン!」


 なんと、彼は馬に乗る男三人に囲まれていた。おおよそ、リオの悲鳴を聞きつけ、ジセンと共に外へ出たのだろう。

 しかしながら、男達はユンジェの予想する追っ手ではないようだ。
 女を逃がすな、と勘違いしている。様子を見る限り、あれはユンジェとティエンを追う者ではなく人攫い。

「ここの養蚕農家を荒らしたら、次の養蚕農家に行く。金目のもの奪え」

 そして追い剥ぎだ。
 養蚕農家は町から、やや離れた場所にある。町人達から避けられた存在だと知っているからこそ、襲いやすく、稼ぎも良いと小耳に挟んでいるようだ。簡単に奪えると嘲笑する声が聞こえてくる。

 騒動を聞きつけたトーリャが見に来たので、ジセンが部屋へ戻るよう声を張った。
 中には幼子達がいる。それも人攫いの対象となりかねない。そう指示する声が、うめき声になる。ジセンは腹部を力いっぱい蹴られていた。

 ユンジェは焦る。
 真っ向から勝負を挑んで勝てるはずがない。しかし、考える時間もない。どうすれば。

「いやっ、いや! ジセンさんっ!」

 賊が柳葉刀を抜き、それを倒れるジセンに振りかざした。

 もう、なりふり構わっていられない。
 ユンジェは急いで懐剣を抜き、彼の下へ走る。

 間一髪のところで、柳葉刀を受け止めることに成功したものの、おかしい。
    

 いつものように相手を見切ることができない。力が入らないわけではないが、次に動くべき行動が思いつかない。体が思うように動かない。柳葉刀を押し返せない。

 何かしら懐剣から伝わってくる、麒麟の心魂を感じない。

 そのせいで軽々と懐剣が弾かれた。


 ああ、まずい。


 察した時は、すでに懐剣を手放し、柳葉刀が右肩から胸に掛けて滑っていく。かちん、と体のどこかで金属同士のぶつかる音が聞こえる。
 夜の刻なのに、痛みのあまり目の前が真っ白となった。

「ゆっ、ユンジェ――っ!」

 泣き声まじりのリオの悲鳴が遠い。

 崩れる体をジセンが受け止めてくれるが、それすら他人事のように思えた。
 かろうじて意識はとりとめているものの、見える視界がぼやけている。気をしっかり持て、とジセンに揺すられるが、反応できずにいる。体中が熱くて痛くて痺れている。なにより肩が痛い。

 その時であった。向こうで短剣を構え、逃げまどっていたティエンが呆けたように佇む。


「ゆん、じぇ?」


 彼は混乱しているようであった。馬に乗る男達が、そこまで来ているのに、それすらどうでもいいように、呆然としている。

「うそ、だ。ユンジェ。ゆんっ……」

 やがてユンジェが斬られた現実に顔をこわばせ、それが受け入れられず、その場で咆哮する。


 瞬間、夜の天が割れた。
    
< 97 / 275 >

この作品をシェア

pagetop