黎明皇の懐剣
天に強く願った時だった。
向こうでティエンとカグムの、凄まじい言い争いが聞こえた。驚くことに、両者は剣を交えているではないか。
あれほど、ユンジェの仇を取ろうとしていた彼が、カグムを捉えた途端、標的を変えた。
一体どうなっているのだ。味方ではないのか。ジセンは唖然としてしまった。
「しっ……しまった」
ハオが止血の手を進めながら、顔を引き攣らせる。
「カグムを行かせたら余計、状況が悪化するに決まってるじゃねえか。ったく、どいつもこいつも、すこぶるメンドくせぇ! 臨機応変に状況を見ろよ!」
その間にもティエンとカグムの言い争いは続き、賊から目を放してしまう。
それを見逃す輩達ではない。賊の一人はカグムの背を狙い、リオを担ぐ賊はティエンの頭目掛けて斬りかかる。
各々それを回避すると、リオを担ぐ賊が動いた。
「小娘、邪魔だ」
ついに暴れるリオがお荷物になったのだろう。
その身を投げ、苛立ちと共に柳葉刀で彼女を斬る。寸前でティエンが体を受け止め、二人の体は仲良く地面へ転がった。柳葉刀は二人の後を追い、振り上げられる。
「リオっ、ティエン!」
ジセンの叫びが合図であった。
それまで、荒い呼吸を繰り返し、瞼を下ろしていたユンジェが目を見開き、素早く身を起こして走り出す。待て、止まれ、クソガキ、そういう声は一切届かない。斬られた痛みも念頭にない。
ただただ、いまのユンジェを突き動かすのは、使命のみ。
所有者から災いを守れず、なにが懐剣。なにが麒麟の使い。心のどこかで、ユンジェを責める声が聞こえる。
そう――ユンジェは彼を守る懐剣である。寝ている場合ではない。守らなければ。
強い思いがユンジェを奮い立たせる。
リオの旦那を助けるどころか斬られ、あの子のことも助けられず、守るべきティエンに短剣を振るわせている。
麒麟から使いを頼まれているのに、自分はこんなところで何をやっている。何を。
転がっている懐剣を拾うと、柳葉刀を振りかざされている二人の下へひた走る。
聞き手の右は肩が負傷しているため、不慣れな左でそれを持ち、彼らの間に割って懐剣で受け止める。甲高い金属の音が一帯に響いた。
「こっ、小僧っ……貴様まだ動けるのか」
ユンジェは肩で息をしつつ、口角を持ち上げる。所有者を守ることがユンジェの役目なのだ。動ける動けないの話ではない、動かなければならないのだ。
「ティエンにっ、手ぇ出すのは懐剣の俺をっ、折ってからにしろっ……俺はまだ、折れちゃねーぜっ」
あれほど重たかった柳葉刀を、いとも容易く押し返すと、広い刃渡りを叩き折った。
賊の戸惑う声が、ユンジェを化け物だと称する。
どう思われても構わない。化け物だろうが何だろうが、自分は懐剣。災いから所有者を守るお役を受け持っている。ただ、それだけだ。
そこでユンジェは気付く。
そうか。だから、さっきは麒麟の心魂を感じなかったのか。自分は『所有者』を守るだけの懐剣だから。ティエンの懐剣だから。
心のどこかで懐剣を抜けばどうにかなると思っていたが、それは甘い考えだったようだ。懐剣を抜く機会も、これからはよく考えなければ。
折れた柳葉刀が投げつけられる。それを懐剣で弾いた隙を突かれ、蹴り飛ばされた。
しかし、地面に懐剣を突き刺し、その勢いを弱めると、猪突猛進に突っ込む。
走る度に止血途中の傷から血が止めどなくあふれ出た。膝が折れそうになる。目も霞む。それでも、そこに災いがあるのなら。
「待てっ、ユンジェ。もういい、止まれ! 走るな!」
ティエンの声がとても遠い。
ユンジェは賊とぶつかる寸前、身を屈めて股の間に滑り込んで、男を通り抜ける。
そのまま後ろに回ると、頚椎目掛けて懐剣の柄で殴り飛ばした。急所である頚椎を殴られ、賊は息を詰まらせるように呻く。
そして眼球をぐるりと真上に向け、白目となった。前のめりになった体は、支えきれずに倒れてしまう。
「へ、へへっ……さすがに、ジセンの家で死体を作るのはっ、あんまりだからな」
ユンジェも懐剣を握ったまま、両膝を崩してしまう。
地面に叩きつけられる前に、走って来たティエンが受け止めてくれたので、痛い思いをしなくて済んだ。
「ユンジェっ、しっかりしろ。ユンジェ!」
答えたいけれど、申し訳ないことに力がもう残っていない。
さっきまで羽のように軽かった体が、爪先も動かない。忘れていた痛みが襲ってくる。呼吸は苦しく、熱や痺れも出てきた。でも、ちょっとだけ、寒い。
ああでも、大丈夫。これくらいで死ぬような軟ではない。ティエンと体のつくりが違うのだ。少し休んだら、きっと声が出るようになる。
そしたら言ってやろう。
お前、酷い顔をしているぞ……と、からかってやろう。