オフセットスマイル
 あっ、と声にはならなかったが、思い出したように椅子から半分立ち上がり、きつく締まったジーンズの前ポケットを緩める。手探りに指を滑り込ませ、中から紙切れを取り出した。

 テーブルの上で小さくなっていた紙切れのシワを、無言のまま丁寧に延ばす。うずくまるように身を乗り出し、細かい作業を続けて広げてみると、見覚えのある薬の包み紙になった。

 抑制されたボールペンの筆圧で、僕自身が殴り書きをした糸屑のようで撥ねた文字が、そこに記されている。

 それは僕が未だ憧れる人の住所だった。


 憧れの人……その人は、僕に外の世界を教えてくれた小学校の教育実習生、小岩井早苗のことだった。


 ◇


 小学校六年生の時に、早苗先生は僕のクラスに突然やって来た。

 光の加減で少し茶色にも見えるさらさらの髪で、お下げ髪の似合う小さな先生。目は粒羅で、黒目が大きく、毎日小豆色の無地のジャージを上下に着て、教壇に立っていた。

 ある日、どうしていつもジャージを着ているのかと、クラスメートの誰かが聞いたことがある。

 その答えは明解で、それは、ジョギング。家から学校までの道のりに広がる自然が、余りにも新鮮らしく、わざわざ遠回りしてまで走っているそうだ。

 都会をひたすら走ってきた先生にとって、それは知らない世界の貴重な体験なのだそうだ。

 都会生まれの都会育ちの先生……。

 小学生の僕には、その生い立ちの意味するところや、培われた価値観なんて、分かる筈もなかった。

 クラスの皆はそんな若くて期間限定の先生に親しみを込めて、サナエ先生、と下の名前で呼んだのだ。

 


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