オフセットスマイル
「はぁ? 何でそんなことしたの?」

 今時、大袈裟に聞こえないフリをする人間は、珠子ぐらいなもんだろう。近くにいて恥ずかしくなるどころか、反って呆れる。


「おいおい、バイトは大丈夫なのかよ」


 チラチラと此方を気にしている、カウンター越しのマスターが目に入った。本人はさり気なく見ているつもりかもしれないが、不安定な今の僕には、些細な事柄に対しても、関心を持ってしまう。


「バイト?」


「ああ、ここのアルバイトだろ?」

 珠子の目が柔らかく、丸くなった。


「違うわよ。ここが私の家。親の手伝いをしてるの」


「エーッ?」

 ごく自然な感じで、体の空気が抜けた。その時に、僕の口元までも柔らかく緩んだのだが、決して笑っている訳ではなかった。


「ほら、あれ、私のお父さんよ」


 振り返って、珠子がさっきのマスターに腕を振る。

 一瞬、止めようと思ったものの、展開の速い状況に直ぐに掻き消され、僕も釣られて同じ方向を見た。


「見覚えあるでしょ?」

 珠子の父親を見るつもりが、少しばかり狂った。

 僕は珠子を見ている。珠子の首筋、耳の裏から、白い産毛の生えた頬が巻き上がっていた。睫や瞳が見えた頃には、もはや充分に心臓が破裂しそうで、冷静に記憶を辿っている場合では無かった。


「お父さん! ホラ、上井君よ。近所のお寺に住んでいた、上井ホマレ」


 マスターは、ああ、といった風に首をゆっくりと上下させ、置物のようなオーバーリアクションで答えた。

 コップに付いた水滴を、いつまでも拭っている。


「どうも、上井誉です。故郷を出てきました」

 何事も無いように、はっきりとした口調で、且つ、少し大きな声で、僕は珠子の父親に向かって挨拶をした。

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