オフセットスマイル
「就職できないよ。住所がないと」

 珠子が、ぽつりと言った。


「それぐらい解ってるよ」

 僕の強がりだった。

 何の根拠もない、救いようのない不安。幼い衝動などではなく、そんな不安を打ち消したのも、珠子だった。


「ね、ココで働かない?」


「な、なに?」


「私の代わりに」


「何言ってんだよ」


 珠子が何を言っているのか分からない。


「私の給料をカミイ君が稼ぐの」


 益々、僕を惑わす言葉を吐く。珠子はその罪の重さを解って言っているのだろうか?


「それでどうなる?」


「住所はこのお店。私は自由」


 珠子はニッコリと笑う。


「何か……、やりたいことでもあるのか?」


「時間が欲しいの。ちょっと考えがあって」


「聞かないよ。ありがたい話だが、珠子のお父さんがなんていうかな」


「お父さんなら大丈夫よ。カミイ君は知り合いだし、このお店は住居兼店舗だし」


 珠子は本気のようだった。目を見れば分かる。僕は押されっ放しで、いつしか、背中をきっちりと椅子の背もたれに圧し付けていた。


「簡単に言うよな。それに……、今日からはダメだぞ。行くところがあるから」


「わかってるって。それじゃ、お父さんに話しとくから」

 至近距離で、バイバイと手を振る珠子。

 早速、話を進めようとするのは明らかで、僕は体の中で、さっき飲んだ珈琲が溢れるぐらい慌てた。
 

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