オフセットスマイル
「君にね、ありがとう、って言いたかった」


「ありが……とう?」


「夢だよ。僕の夢。君の夢。外の世界に出て、精一杯に生きる夢」


「……」


 僕は完全に珠子の方を振り向き、両手を掴んで言った。彼女の指は細く、なのにゴツゴツしていて、ささくれた割箸をくわえたままだった。

 親指が初めて彼女の手のひらまで触れた。割箸を挟んだ指をほどいて、思ったことがある。それは、彼女の手のひらが、こんなにも柔らかく温かかったのを、僕は知りもしなかったことだ。


「僕はね、ポスターの声が聞こえるんだ。聞こえていないフリをしていたけど、本当はちゃんと聞こえている。いつしか聞こえるようになった。それ自体、思い込みなのかも知れないけど。多分、病気が進むに連れて、そんな風になったんだと思う」


 無意識に珠子の親指と人指し指の付け根のあたりの、ツボかもしれないところを圧す。


「ポスターの声……」


「だから、いつも君の話も聞いていたんだ。辛いことも、悲しいことも、勿論、楽しいことも、嬉しかったことも……」


「待ってよ。お願い、待って。私、本当は……」


 珠子の声は押し潰された。顔が崩れ、急に泣き出しそうになった。

 両目に涙が溢れ、それでも、口元で必死に堪えている。


「言わなくていい。言わなくていいんだ。僕の中で、君は確かに存在しているんだから」

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