四面楚歌-悲運の妃-
第3皇子とはいえ念願の皇子を生み、四夫人の上から2番目の淑妃となった稚皇太后様は、陛下の寵愛も失せる事はなく、しだいに後宮内で確固たる地位を確率していきました。
同じ四夫人とはいえ、四番目の賢妃の呂貴妃様は、皇子が死して生まれなければ己が淑妃になり、稚皇太后様の地位にいたはずと
そうして、2人の間に小さな火花は散り始めたのです。
小さな火花が大きくなるのは時間がかかりませんでした。
翌年の宋暦2年、呂貴妃様は念願の皇子、恢長公子様をお生みになられ、四夫人の上から3番目の徳妃へとなられたのです。
互いに皇子を得たお2人。
稚皇太后様より上へと望む呂貴妃。
呂貴妃に再び見下されたくない稚皇太后様。
火花ははげしく散りはじめたのです。
火花が炎になるのは、まだ先のことでございます。
宋暦4年。
16歳となった私は、初めて陛下の床に呼ばれました。
私は充容から昭儀となり、お2人に敵視されるのではないかと心配はありましたが、私にはしばらく子はできませんでしたし、お2人程の寵は頂いておりませんでしたし
何事もなく、変わらぬ後宮生活が出来ました。