四面楚歌-悲運の妃-
宋暦8年。
この年、長く病を患っておられた、第2皇子の生母・張貴妃様が亡くなられました。
張貴妃様はお二人目の御子であられる、嫖華公主(ヒョウゲコウシュ)をお生みになられて以来、病で床に伏せっておられましたから
稚皇太后様や呂貴妃にとっては、敵視するまでもなかった様ですが、貴妃の座にいた張貴妃を疎ましく思っていました。
そしてようやく空いた貴妃の座に、お2人喜ばれていた様でした。
貴妃の座をどちらが先に手に入れるか…
そして翌年、宋暦9年。
貴妃の座についたのは、陛下の第5皇子・曹慶(ソウケイ)公子を生まれた稚皇太后様。
2人の皇子を生み、貴妃になった稚皇太后様は、後宮内で椀皇后に次ぐ地位と権力を得たのです。
呂貴妃様は、翌年に徳妃から淑妃へとなりましたが
後宮内では、呂貴妃様と稚皇太后様の大きな差に、この争いは幕を閉じたと、皆が言っておりました。
しかし3年後の宋暦12年。
稚皇太后様が生みし、第5皇子・曹慶公子が幼くして逝去されてしまいます。
さすがの稚皇太后様も、それにはお嘆きになり、床に伏せられてしまいました。
それを待っていたかの様に、漬け込んだのが呂貴妃様。
稚皇太后様が床に伏せっているのをいい事に、後宮内で権力をかざし始めたのです。
そう…呂貴妃様は負けを認めて諦めたのではなかったのです。