御曹司と婚前同居、はじめます
「瑛真さん、そろそろ行かないと」


まやかさんが瑛真の腕を遠慮がちに引く。

簡単に触れさせないで。婚約者は私なのに。


「……今夜は遅くなる」


どうして遅くなるのか詳しくは教えてくれないの?

悲痛な気持ちで瑛真を見つめても、今朝触れたばかりの唇からはやっぱり言葉は出て来なかった。

ダメだ……泣きそう。

でも、まやかさんの前で泣くことだけは絶対にしたくない。

震える唇を開き、「失礼します」と告げると、私は背筋を伸ばして二人に背を向ける。


「美和!」


瑛真の声に足が止まる。


「帰りもタクシーで……」


そんなこと言って欲しいわけじゃない。

余計に惨めな思いにさせられて、唇をきつく噛み締めた。

幸いにもエレベーターはすぐに開き、私を彼等からすぐに遠ざけてくれた。

たった一言でいい。安心できる言葉が欲しかった。

些細な変化にも気付いてしまう彼だから、私が傷付いていたのは絶対に分かったはず。それなのに――。

涙が止まらなくて視界がぼやけている。

こんなに泣いていたら周りに何事かと思われるわ。

まだ失っていない理性を奮い立たせてトイレへと駆け込んだ。

休憩時間でもない社内トイレは閑散としていて、吐き出すように涙を流すには、十分過ぎるくらいに寂しい空間だった。


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