白貝と柏木
翌日の朝。
カレンダーが7月に変わった。
カーテンを開けると、外は快晴で、太陽が眩しい。
梅雨が明けて、夏の白い光が街中に降り注いでいた。

家を出て、学校へ向かった。

グラウンドの運動部を横目に見ながら、校舎の中へと歩く。
階段を上がり、辿り着いた廊下は無人で静まり返っていた。
教室の後ろのドアの前まで来て、足を止める。

土曜日の朝の教室、なんて、来てくれないかもしれない。

あんなメール、今更何だと思われたかもしれない。

だから、ドアを開けても柏木がいなかったら、それが柏木の返事だ。

もし、いなかったら。

そう考えただけで足がすくむ。

恐い。

けど、私はドアを開けなきゃ。

ドアに手をかけて、開ける。


…いた。

窓際、後ろから三列目。私の左斜め前の席。

机に突っ伏している、柏木春基の後姿。


来てくれたんだ…。

泣きそうになる。

ゆっくり、教室の中に足を踏み入れる。

開いた窓から運動部の声が聞こえる。
カーテンが風にはためく。

一歩一歩、歩みを進めていく。

柏木の席の横に立つ。

机の上に、組んだ両腕を枕にして、顔を横に向けて、瞼を閉じている。

夢にまで見た髪に、そっと触れる。

さらさらで、硬い。
柔らかな針みたいな毛先。

この髪に、ずっと触りたかった。


私、ずっと、高い高い飛び込み台の上にいると思ってた。

下を覗いては、恐がって後退りしてた。
怖気付いて、今ならまだ引き返せるって、逃げ出そうとしてた。

だけど本当は、柏木の髪に触れたあの日から。
もしかしたら、柏木の姿が誰とも違って見えたあの瞬間から。

私、ずっと長い落下の最中だったんだ。


「私、柏木が好きだよ」

柏木がゆっくり目を開ける。

「知ってる」

低くて、あったかくて、やわらかい声。
大きな手が、私の手に重なる。

「やっと言ったな。ずっと待ってた」

切れ長で目尻の上がっている目が三日月形に細まって、形のきれいな唇の端が上がる。

ずっと見たかった、柏木の笑顔。


今、ようやく、水中に飛び込む。

どこかで水の音を聞いた気がした。

水飛沫が上がるのが見えた気がした。

そうして初めて知る。
飛び散る水飛沫の一つ一つが、宝石のように眩しくきらめく、その美しさを。


柏木はずっと、飛び込み台の下で水に浸かって、私を待ってたんだ。
逃げ出したりなんてしたら、置き去りにするところだった。


私、落ちてよかった。

柏木に、飛び込んでよかった。



20171023
< 29 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop