さまよう爪
「すみれー」

何回言うの。

ぞわっとする。

直人が、こちらの首筋に鼻をくっつけていたからだ。いつも香水を吹きかけているところへ。

香りをかいでいる。

犬っぽいのは変わらず。

向こうの、あたたかい呼吸を首に感じる。髪のにおいもふわり、鼻にとどいてくる。煙と油、ほのかにシャンプーのシトラスの香り。

ネクタイはズボンのポケットに突っ込まれ、ワイシャツのボタンははずれてる。

困ると眉を寄せる癖もそのまま。

けれど、わたしは変わった。

この、焦がれていた仕草や風采はもう、今となれば色あせている。

情けなく八の字にした眉毛。

半開きの唇から弱々しい声を発する。

すみれぇ俺。

どんなことを言ってきても突っぱねるつもりだったのに直人の次の一言で固まってしまう。

「俺、結婚したくない」

言葉が出てこない。
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