さまよう爪
どうしようか迷って奮発することにした。

銀座の美容院でその店のトップスタイリストに髪を切ってもらう。

これでもし変な髪型になっても自分の責任にはならないと思う。

もし気に食わなかったら心の中で一切遠慮せずに罵ってやろう。

選んだクーポン券はカットとヘアカラーとトリートメントが一緒になっているコースのものだ。

次に担当するトップスタイリストを選ぶ。

男性にしようか女性にしようか悩む。少し悩んで女性に決めた。

彼女の自己紹介には髪質を生かしたシンプルなスタイルが得意で。ロングからショートへのイメージチェンジも得意です。と書いてある。

これはいいなと思って、彼女を指名してわたしの情報や要望を簡単に書いて予約を済ませた。

息をゆっくり吐き出して深呼吸。

晩ご飯の準備をしよう。

準備といっても、小さなテーブルにセブンイレブンで買ってきたもの並べて、冷蔵庫から缶ビールを取り出して座り込む。

少し高いけれどどうにも発泡酒が苦手で、その辺のビールに数十円か足せばこの美味しいビールを飲めるのだから嬉しい。

いったん座ると、立つ気がしない。マカロニサラダとチーズ入りハンバーグを交互につつきながら、テレビをつける。NHKの9時のニュースでは、女児を連れ去ろうとした男が逮捕されたということを、アナウンサーがお決まりの淡々とした口調で話していた。『暴行の事実があったかどうかが、今後の本事件の焦点になります』とテレビから音声が、ひどく無慈悲に流れた。

この手のニュースを聞くたびに、いつもわたしは我が身を振り返り、溜息をつく。母親の知り合いの男に、一方的に爪を塗られた。犯罪として逮捕するには、弱い、ような気がする。何より、もう時間が経ちすぎていて、騒ぐには遅い。

ただ、あのとき、あれ以上のことがもしあったなら、わたしはいったいどんな人生を送っていただろう。

男を嫌悪し、憎悪し、恨んだまま大人になったのか。それとも、もっと燃えるような恋に思いは変化したのか。わからない。想像しても、わからない。

図書館で、ストックホルム症候群の本を読んだときには、自分もこれにあたるのかな、と思った。ストックホルム症候群とは、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいうそうだ。

10歳の子供の爪に、色をつけるのが法律に照らして犯罪なのか、わたしはずっとずっと、考えている。

だけれど、わたしの心を奪ったまま、消え続けているのは、わたしの中で、たしかにあの男が犯した大きな罪だと、思うのだ。
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