さまよう爪
なかなか話し出しが決まらず、数秒。体感的にはもっと長く感じた。やっと言えたのは、自分の記憶にもない父親が亡くなったということ。

そして、自分には幼い頃からずっと思っている男性がいること。

その人が鎌倉にいるかもしれない。と伝える。

瀬古さんが驚いたように少し目を見開いたがすぐ元に戻った。

それであの。

うん、なに。

「瀬古さんにこんなこと聞くのもあれなんですけど」

顔が火照っているのがわかる。なのにどうしたことか、手先はつめたい。足もつめたい。でもじわじわ汗ばんできて不快。

「ほんと、変なこと聞きますけど」

「だから、なに?」

――わたしどうすればいいと思います?

その言葉を飲み込んだ。実際飲み込んだは唾だけど。

何を考えているのかわからない、はっきりしないところが嫌だった。

愛している人がいるくせに、他の女性に気がある素振りをするところが特に嫌だ。惑わせているところも嫌。

自分なら絶対そんなことはしない。好きな人がいるなら、その人だけを見る。その人だけを思う。

と言い聞かせながらも結局。

わたしも逃げる。

バッグを持って立ち上がる。

「混んできたしそろそろ出ませんか」

背を向け、会計に行こうとした。
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