さまよう爪
覚えてる?

「前に言った俺が爪を塗った相手っていうのがマコのことなんだけど」

テーブルの上には空になったグラス。パセリだけ残ったプレート。

わたしはそれを見ながら、「……何となく、そうなんじゃないかと思ってました」と答えた。
そう。瀬古さんは話を続ける。

「1年と半年経ってマコと再会した日。俺、誘惑に負けてマコとホテルに行ったんだ」

ホテル。

「……でも俺は部屋まで入ってすぐに怖じけづいちゃって、彼女の薬指の指輪見たらさ一気に現実戻されて彼女人妻じゃん何やってんだって。彼女にごめんって謝ったら、いいの誘ったのあたしじゃんだからいいの。って。そっから、そんないいわけないじゃん! いいの! いいわけないじゃん! いいの! の繰り返し。しばらくして喉乾いたから缶コーヒー買って飲みながらふたり真顔」

瀬古さんはそのことを思い出しながら苦い顔をして笑う。

「そして、マコも強引で。ホテルに来たのに何もしないってあり得ないじゃん。あたしのこと好きなら、少しは爪痕くらい残しなさいよ! 言われて俺は彼女の爪にマニキュアを塗ることにしたんだけどね」

「マニキュアを?」

「お客の中にはマニキュアの匂いが苦手な人がいるんだって。その手で髪を洗われたりいじられたりしている間、匂いがついたり剥げたマニキュアが髪につかないか、ずっと不安で不快感持つ人もいるからマコはいつも爪には何も塗っていなかったんだ」

わたしとは正反対。テーブルの下。膝の上に乗せた手を見る。綺麗な赤がこれでもかと主張し輝いている。

視線は再び、空のグラス。残ったパセリ。

「あたしはヘアカラーで黒く染まった爪も美容師の勲章だと思ってるし、美容師は、爪を伸ばすとシャンプーは勿論、カットでもまともな仕事が出来ない。爪を伸ばしているような美容師は最低。ってね」

あくまでマコ個人の意見ね。

そう瀬古さんはつけ足す。

「お客の顔に爪が引っかかったり傷つける恐れもあるし、衛生的にも爪の間に雑菌が入り易い。国家試験でも爪をチェックされて、少しでも伸びていたら落されるらしいんだって厳しいね」

美容師は、爪のオシャレだけは諦めてる。それがプロ意識というもだから。

そう思っていた彼女がマニキュアを塗ることを許可したのは、相当なものだったのかもしれない。
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