さまよう爪
『ゆき子さんに、この部屋で待ってて、って言われてるんだけど、きみがいるとは聞いてなかったなぁ』

間延びした声は、ザラメのようにどこか甘さを孕んでいて、わたしは動けなくなった。

ふいに彼は、足元に目をやり、棚から出したまましまうタイミングを逃して、畳に散らばったままになっている化粧道具を見つけて、中から口紅を拾いあげた。

『何? 化粧なんかすんの? 遊んでたの? ガキなのに?』

心底おかしそうに言ってから、男は思いもよらないことを言った。

『じゃあ、お兄さんが、きみを魔法にかけてあげよう』

とてもふざけた声だったので、わたしは警戒したが、男はそのまましゃがみこんで、ガサゴソと化粧棚をあさりはじめた。

しばらくしてから『あった、これこれ』と小さな瓶をわたしに見せた。

『爪、塗ってあげるよ。やったことないだろ』

男の手にあったのは、ルビー色のマニキュア瓶だった。

わたしは恐れてもいたが、好奇心に負けた。

実は一度だけ、自分でも塗ってみたことはあったのだけど、ぜんぜん上手く塗れなくてガタガタのボロボロで、あとから呆れ顔の母親に除光液で落としてもらったのである。
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