あなたの溺愛から逃れたい
「逢子ちゃん、お茶、お茶!」

女将の声が聞こえる。普段冷静沈着な女将が珍しく慌てた声を出している。
そこでようやく、私は自分がさっきから急須を傾けっ放しであることに気付いた。

お客様の前じゃなく、休憩時間に自分が飲む用で良かった。
ただ、火傷はしなかったけれど、当然テーブルが水浸しだ。休憩時間に仕事を増やしてどうする、自分。


「逢子ちゃんがボーッとするなんて珍しいわね。悩み事?」

隣に座る女将が、心配そうに私の顔を覗き込む。
休憩室用のこの和室には、今は私と女将の二人きり。かと言って、さっきの崎本様との件を話す訳には……と思ったのだけれど。


「創太のことでまだ悩んでる?」

眉を下げてそう聞かれてしまったから、「い、いえ、創太のことではなくて……」と言ってしまって。

「じゃあ何?」と聞かれ、結局さっきのことを話すことなってしまった。


すると女将は何だか嬉しそう。
さっきからしきりに「あらあら」と「まあまあ」を笑顔で繰り返している。


「あの。別に私は、お客様とどうこうっていうのはありませんからね」

何だか誤解されていそうだったのでそこははっきりと伝えたのだけれど。


「いいじゃない。お客様との恋愛はご法度じゃないわよ」

「い、いえ、だから……」

「前にも言ったでしょう。最初はその気なんてなくても、次第に好きになっていくことだってあるんだから」

確かに、女将と旦那様はそういう風に愛を育んだと聞いたけれど。


崎本様は、私が尊敬する小説家の岡崎先生。憧れている存在であるということに間違いはない。

でも、好きになるかは別だよ。

少なくとも今は、まだ創太のことが大好きでそこまで考えられない。


額にキスされて、ドキッとしたのは事実だけど、驚きが強かっただけで、ときめいた訳じゃない。


だから、次の恋のことはまだ考えられない。



ていうかそもそも、あの岡崎先生が私のことを好きになるっていう展開が有り得ないけどね!
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