あなたの溺愛から逃れたい
専用温泉の入り口が見えたところで、私たちは足を止める。
入り口は二つあって、当然、男湯と女湯で分かれている。


お風呂から上がったら、明日の朝までは顔を合わせないだろう。付き合っていた時は、夜に創太の部屋でこっそり会っていたりしていたけれど。


なので「では、お休みなさい」と、私は軽く頭を下げてそう言った。


すると、彼は。



「逢子」


と。突然私の名前を呼んだ。
〝逢子さん〟ではなく〝逢子〟と、付き合っていた頃のように。


驚いて、でも本音を言えば少し嬉しくて。でも、きっと喜んじゃいけなくて、そもそも創太がどういう意図で名前を呼んできたのかが分からなくて。

複雑な気持ちに支配されながら、「はい……」と小さい声で返事をしながら顔だけ振り向くと。


「あのさ、ずっと言おうと思ってたんだけど」

「は、はい」

ずっと言おうと思ってたって何だろう。まさか……復縁?
期待と不安が入り混じる。けど、彼は口元に柔らかく笑みを浮かべていたから、不安より期待の方が勝ってしまいながら、彼の言葉の続きを待つ。すると。


「別れてからお互いに丁寧語で話すようになったけど、やっぱり普通に話さない? 旅館では立場的なものがあるからそういう訳にもいかないけど、二人きりの時くらいはさ」

「えっ?」

「え?」

「あ、いえ……」

今までみたいに普通に話そうって言われて嬉しいはずなのに、期待していた言葉と違って、ガッカリしてしまった自分もいた。でも、そんな自分に気付いた瞬間、恥ずかしくて顔がカッと熱くなり、赤い顔を見られないように顔を伏せた。

本当、恥ずかしい。きっと創太は私のことを、もう割り切ろうとしてくれているのだと思うのに。だからこういう話をしてくれているのだと思うのに。
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