あなたの溺愛から逃れたい
用が済み、ホテルを出たのは正午を少し回った頃。
このまま旅館に戻れば十四時までには着きそうだ。
父さんとは決して不仲ではないけど、ここ最近は顔を合わせる度に見合いの話や、跡継ぎの話ばかりだ。正直、今そんな話を平常心で聞けるほど、気持ちに余裕なんかない。
今日もやはり、その話ばかりで。
疲れた。逢子の顔が見たい。
フラれたけど、もう触れられないけど。それでも、逢子の顔を見るだけで疲れなんて吹き飛ぶから。
あわよくば、笑顔が見たい。無理して笑ってる顔じゃなくて、心からの笑顔。
次にその笑顔が見られるのは、逢子が俺以外の男と付き合うことになる時だろうか。
いくら逢子の笑顔が好きだからとはいえ、他の男に向ける心からの笑顔なんて俺は見たくないけど……でも、逢子は俺が見合い相手と幸せになることを願っている。
それなら俺も……逢子が他の男と結ばれる幸せを願うべきなんだろうか。
旅館に到着すると、従業員たちに挨拶を済ませ、荷物を置くために神山家の自室へ向かう。
逢子、いなかったな。
挨拶するという名目で逢子の顔が見たかったのに、彼女の姿はどこにもなかった。外にでも出てるのだろうか。
すると、部屋の外の廊下から足音が聞こえる。
旅館と繋がっているとはいえ、ここはあくまで神山家。旅館の従業員が勝手に入ってくることはまずない。
ということは。
「逢子っ?」
彼女の名前を呼びながら、ドアノブを回して部屋の戸を開ける。
……つい、声が弾んでしまうのを抑えられなかった。
でも、そこにいたのは逢子じゃなくて。
「なんだ、母さんか」
俺がそう言うと、母さんはムッとした表情で腰に手をあて「なんだじゃないでしょ」と言い返した。