その男
一度“あの人”がすらりと背の高い男の店員と話をしている姿を見たことがある。
妄想通りの声の“あの人”に芽以の心臓は張り裂けそうになった。
“あの人”はいつも屋外のテーブルでテイクアウトのコーヒーを飲みながら本を読む。
芽以は本屋の中でガラス越しに“あの人”を観察し続けた。
その日“あの人”はコーヒーカップをベンチの横のゴミ箱に捨てた。
いつもは飲みかけのコーヒーを持ち帰るのに。
鼓動が早くなる。
“あの人”の後ろ姿が坂の向こうに消えると芽以は外へ飛び出した。
ゴミ箱に捨てられたコーヒーカップを拾いあげ、小さく弱々しい生き物に触れるようにコーヒーカップを両手で包んだ。
“あの人”がさっきまで触れていたカップ。
そっと顔を近づけるとコーヒーの芳ばしい香りが鼻先に触れた。
目を閉じカップのふちにそっと唇を押し当てる。