強引専務の身代わりフィアンセ
 息を整えて廊下を突き進む。ほかの企画をしているホールに移ることも考えたが、私は不自然にならない程度の早足でイベントが行われていないホール前に足を進めた。

 ひとけがなくなったところでようやく立ち止まり、大きく息を吐く。

 そのときだった、完全に油断しきっていた私の手が掴まれて、驚く暇もなく強い力で引かれたかと思うと、廊下に背中を押し付けられる。無機質な感触を背に、目の前には予想だにしていない人物がいた。

「どういうことだ? どうして君がここにいる?」

「高、瀬専務」

 大きく目を見開いたまま私は愕然となった。整った顔がやや息を乱してこちらを見下ろしている。彼の左手は私の手首をしっかりと掴んだままで、右手を壁についている。

 まるで獲物を追い詰めたかのような格好だ。漆黒の瞳から私はわざとらしく視線を逸らした。

「どうして、って個人的に興味があって来たんです」

「随分、ティエルナに入れ込んでるみたいだな」

 間髪を入れずに不機嫌そうな声が飛ぶ。私の格好を見れば一目瞭然だ。けれど、それでいい。私はティエルナの大ファンで今日は個人的にここに来たんだ。

「ええ、好きなんです。いけません? MILDは社員の個人的な嗜好にまで口を出すんですか?」

 わざとらしく挑発めいた言い方をする。社員としての自覚は足らないかもしれないが、私はなにも悪いことをしていない。しかし専務は厳しい顔をしたままだった。

「個人的に来てるなら、なにも言わない。けれど、君が企業スパイの可能性もあるだろ」

 なるほど、そっちか。ここにきて、彼と初めて話したときに、淀みなくIm.Merのことを語ったことを後悔した。

 興味がないと言って、ひとつも身に着けてないくせに、詳しすぎるのは逆に不信感を抱かせたようだ。あれから彼と目が合ったりしたのは、そういうことだったのかと納得する。
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