強引専務の身代わりフィアンセ
「ここ、ですか?」

「そう。足元が悪いから気をつけて」

 ゆっくりとドアを開けて、地に足をつける。木々が生い茂って、合間からきらきらとした光が降り注いでいた。外だけれど、思ったより暑くない。

 少し歩くらしく専務のあとを追うと、今度は木で作られた、どこか危なっかしい階段を下ることになった。そして、次第に水が流れる音が聞こえてくる。

「川?」

 私は予想を声にした。下りたところには、そんなに幅も広くなく、浅瀬の小さな川が流れている。水面が反射し、川底が見えるほど浅く、透明度も高い。

 水遊びするのにはちょうどよさそうだけれど、辺りに人は誰もいなかった。

 向こう側もそう遠くはない。木陰に立ち、この風景をどこか夢見心地で見つめていると、隣に立った専務が口を開いた。

「昔、ここで」

 瞬時に、次に彼から続けられる言葉が脳に浮かんだ。

「川に落ちちゃいました?」

 つい専務に詰め寄るようにして、頭に過ぎったことを口にする。すると彼は、目を見張って、じっとこちらを見つめてきた。

「いや、違うが」

 冷静に返されて、私はすぐに恥ずかしくなった。話の腰を折ったのも、自分の発想があまりにも単純だったことにもだ。

「す、すみません! 違うんです。その、昔、私が落ちちゃったことがあって。それで勝手に……」

 フォローしたつもりが、なんだか墓穴だった気がする。専務みたいな人と私を一緒にするなんて、失礼にもほどがある。

 さらに、話の出端を挫いてしまった。専務はなにも言わず、私から顔を背ける。どう取り繕うか悩んだところで、私の目には意外な光景が飛び込んできた。
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