強引専務の身代わりフィアンセ
「美和」

 名前を呼ばれ、深みにはまりそうな思考が浮上した。半歩先を歩いていた専務が、心配そうにこちらを見ている。人の流れに逆らって、こんなところで立ち止まっている場合ではない。体も、心も。

 大丈夫だと慌てて取り繕おうしたところで、言葉よりも先に彼から手が差し出された。

「なにも心配しなくていい。俺がついてるから」

 低く落ち着いた声が、乱れていた心をすっと静めてくれる。クライアントに心配をかけるなんて、あってはならないことだ。けれど今は、こうしてフォローしてくれることがすごく有難かった。

「おいで」

 照れることなく、私は素直にその手をとった。思ったよりも温かくて力強い。

「ありがとうございます、一樹さん」

 自然とお礼の言葉が口に出る。すると専務は私の手を強く握り返してくれた。はぐれないようにするためなのかもしれない、私に上手くやってもらわないと困るのは彼自身だ。

 どんな理由でもいい。たとえ彼がこうして私に優しくしてくれるのが、婚約者の代役をしているからなのだとしても、今はこの手を離したくない。離さないでほしい。

 おかげで私は、気持ちを切り替えて仕事に臨むことができた。

 開幕式は巨大モニターにアラータの現社長であるローランド氏の姿が映し出され、通訳を通しながらエキスポに対する意気込みや、今後の業界についての希望や展望などが熱く語られた。

 期間中は、アクセサリーを使ったコーディネートのコンクールやファッション業界とコラボしたショーステージ、有名アクセサリーデザイナーのトークショーなど、多くの催し物が予定されている。

 また企業向けには商談ブースやプレゼン発表なども企画されており、すべてに参加することはどう考えても難しい。専務には全部一緒に参加しなくてもいい、と言われているので、私の空き時間は思ったよりもありそうだ。
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