強引専務の身代わりフィアンセ
「名前で呼ぶ約束だっただろ?」

「ですがっ」

 続きは、彼の長い指が私の唇に触れたことで声にできなかった。焦らすように親指の先が私の下唇をなぞる。
 
「美和」

 耳元で低く名前を呼ばれ、彼の声が鼓膜を震わせる。震えたのは鼓膜だけではなく、叫びそうになるのをぐっと堪えて、私は降参の意を示した。

「わかりました、名前で呼びます。だから離してください」

「まだだ。あっちでは寝かせない」

「でも、一樹さんをソファで寝かせるわけには……」

 おずおずと私は反論する。重力に従って落ちる彼の黒髪は私よりもずっと綺麗だ。

「だから、ここで一緒に寝たらいいだろ?」

「え?」

 つい見惚れていると、彼の薄い唇から紡がれた言葉は、私の耳を通り過ぎていった。

「おとなしく首を縦に振ってくれないか?」

「……横に振ったらどうなります?」

 弱々しく返すと、専務はなにも言わずに私に体を預けてきた。彼の重みを感じながら、そのことに戸惑う暇もなく私は小さく悲鳴をあげる。彼の長い指が左耳の輪郭に沿って滑らされたのだ。

「美和がここで寝る、って言うまでやめない」

「そ、そんなのずるい、んっ」

 最後まで言わせてもらえず、耳たぶに軽くキスを落とされ、私は目を瞑った。初めての感覚に思わず泣きそうになる。ここまでする意図が読めずにいると、専務が私の耳に唇を寄せたままそれに、と囁いてきた。
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