好きって言って、その唇で。
「すみません、お手洗いに行きたいので」
動揺しているというよりはショックを受けたように目を見開く男に気まずさを感じて逃げようと立ち上がる。
「待って、奈々子」
「一刻も、争うのでっ!」
私が立ち去るのを止めようと声をかけてくる男を押しのけて大股でオフィスを出る。
廊下にカツカツも二人分の足音が響く。
こちらは駆け足でいるというのに、私を追いかけてくる男は長いおみ足で優雅に距離を詰めてくる。
あともう少しで女子トイレ、というところでついにひらりと軽やかに正面に回り込まれて、私は息を呑んで立ち止まった。
壁に手をつかれて進路を塞がれたかと思えば、空いた方の手が頬に伸びてくる。
「奈々子は僕が嫌い?」
触れられそうになって肩をビクリと揺らすと彼もまた驚いたように動きを止めて、触れようとした手を引っ込めた。
「いや……苦手だけど嫌いというわけでは」
というよりも、私はこの人をよく知らないし、この人だって私をよく知らない。
純日本人で一般的にもお堅い考えを持っているらしい私はよく知らない人と「とりあえず」で付き合うことなんてできない。