消極的に一直線。【完】
「大丈夫だよ」



私が言葉を発する前に、彼の優しい声が耳に入った。



吸って肺に溜まっていた息が、自然に抜けていく。



「聞こえてるよ」



喉の奥が溶かされていくような、柔らかい声。



なんだかわからないけど、胸の奥が疼いて、また、春のような爽やかな風が肌をかすめた気がした。


緊張とプレッシャーの嫌な汗が、風に吹かれて、なんだか気持ちいい。



「漢字、教えて」



そう言って、彼は、持っていた紙と鉛筆と下敷き用の厚い本を私に差し出した。



頷いて、それをそっと受け取って、一文字一文字、名前の欄に自分の名前を書いていく。



最後まで書き終わって、彼に返すと、彼は、またくしゃりと笑った。



「へぇ、こんな字なんだ」



この人が言葉を出すたびに、春のような風が吹く。



もしかしたら、気のせいなのかもしれない。

暖かくて柔らかくて胸の奥をくすぐるような風、なんて。

だいたい今は九月で、春風なんて吹かない。



もう一度、何か喋ってくれないかな。


そんなことを思って、彼を見た。



でも彼は、何も言わずに、そのふんわりした黒髪にくしゃっと片手を当てた。



整った顔が半分隠れて影を作っている。



そんな姿に、なんだかすごく、目を止めてしまう。



少し前にも同じ動作をしていたけど、クセなのかな。
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