赤ずきんと気弱な狼さん
ある日の森で
 翌日は朝から良く晴れ、絶好の散歩日和でした。赤ずきんはお母さんの用意してくれたパンと葡萄酒、それと縫い上げたハンカチをかごに入れて、元気よく出かけていきます。
 数日前に雨が降ったおかげで、森の木々は青々と光り輝いています。深く息を吸えば、快く湿った香りが心を落ち着かせてくれます。赤ずきんは幼い頃から森が好きでした。
「かっこう、かっこう、森から呼ぶ声が」
 赤ずきんは花が好きで、鳥が好きで、動物が好きでした。
「歌おう、踊ろう、飛び跳ねよう」
 機嫌良く森の小道を進んでいた赤ずきんは、そこで首を傾げました。歌の歌詞がぽつりと思い出せなくなってしまったのです。
 確か…、
「春よ、春よ来い…だったかしら」
「…一番の最終小節は『春は、春はもうすぐそこ』だよ」
 突然、脇のほうから声がしました。深く澄んだ男の人の声です。びっくりしてそちらに目を向けると、茂みの向こうにある木の陰から、誰かがこちらを見ていました。
 目が合うと、誰かさんは焦った様子で背を向けます。
「待って、行かないで!」
 とっさに赤ずきんが呼び止めると、誰かさんは律儀に立ち止まりました。恐る恐る、振り返ります。
「すまない、邪魔をして…」
「いいの。ありがとう、教えてくれて」
 赤ずきんは屈託なく笑いました。
「よければ出てこない?」
「…」
「ちょっとだけで良いの」
 少し間を置いてから、誰かさんはガサガサと茂みをかき分けてやってきました。
 そこにいたのは、若い男の人でした。背が高く、手足もすらりと長い美丈夫です。
 ただ、艶めく黒髪の上には同じ色の三角の耳が乗っていて、落ち着きなく四方に向けられていました。
「やっぱり!」
 赤ずきんは満足げに笑うと、体を傾けて彼のお尻を確認します。太く立派な尻尾が緊張に膨らんでいました。
「触ってもいい?」
「…できれば、止めてほしい」
「そう、残念ね」
 赤ずきんは浅くため息をつくと、まじまじと彼を見上げました。
「…あの…、怖くないのか?」
「ちっとも! 私、狼さんって初めて見た!」
 赤ずきんの村の人たちは森の王者が狼の一族であることを知っています。他の動物とは異なり、人間によく似た姿をしていることも知っています。
 それでいて、時折人間を襲う恐ろしい害獣であることもよく知っています。
「本当に似ているのね」
「そうだな…」
「でも、どうして?」
 赤ずきんの瞳は好奇心に輝きます。
「狼さんの一族は滅多に人間に姿を見せないと聞いたわ。…もしかして私を食べようと?」
「っ、ちがう…違うんだ!」
 予想以上に彼は驚いたようでした。あるいは傷ついたようでした。
 赤ずきんはちょっと鼻白みます。
「ごめんなさい、冗談よ」
「いや…」
「あなた、名前は? 私は赤ずきん」
 赤ずきんが名乗ると、彼は不思議そうな顔をしました。
「赤ずきん?」
「あぁ、クセで…」
 赤ずきんは苦笑うと被っていたずきんを触ります。
「このずきんをいつも被っているから、周りのみんながそう呼ぶの。大きくなってからもこんな真っ赤なずきんを被っているなんて、変よね」
 古びたずきんの表面は毛羽立ち、ほつれや毛玉が目立ちます。
「でも、小さい頃におばあちゃんが縫ってくれた大切なものなの。どうしても捨てられなくって…」
「似合うよ」
 頭一つ以上高いところで、不意に狼がふわりと笑いました。
「似合うよ、赤ずきん」
 その笑顔に赤ずきんは、なんというのでしょうか、心臓を掴まれたような衝撃を受けたのでした。
「…ありがと」
「わたしはアレクシス。君があまりにも楽しそうだったので、思わず声をかけていた」
 アレクシスがゆらんと尻尾を振ります。ちらりと見ると、その大きさは普通のそれに戻っていました。
「心根の美しい子だ。わたしはどうにも気の弱い質で…、君と対峙するのが怖かったんだ」
「狼さんなのに?」
 赤ずきんがぷっと吹き出すと、アレクシスも困ったように笑いました。
「ところでどこへ行く? この先は森が深くなる。大きな獣も出るかもしれない」
「おばあちゃんの家よ。大丈夫、前からたまに行ってるから」
「…祖母君の家はこの先なのか…?」
 なぜかアレクシスの顔が曇ります。
「そうよ」
「赤い屋根の…」
「そうそう! 知ってるのね、アレクシス」
 赤ずきんが鈴を転がすような笑い声をたてると、一瞬彼の頬が赤く染まったように見えました。
「ねぇ、アレクシス。お昼は済んだ?」
「いや」
「おばあちゃんの家にはとても美味しいジャムやマーマレードがたくさんあるの。そして私はバターたっぷりのパンをたくさん持ってる」
 ほら、と赤ずきんはかごに掛けられた布巾を少しめくって見せます。
「そして熱い紅茶を飲むの。素敵でしょ」
「つまり?」
「私と一緒におばあちゃんの家に行かない?」
 アレクシスはなんとも形容しがたい顔をしました。けれど、赤ずきんは気にしません。
「それとも、狼さんはパンを食べないの?」
「食べるが…」
「なら良いじゃない、決まりね!」
 赤ずきんはたくましいアレクシスの腕を取ると、ぐいと引っ張り歩き出しました。
< 4 / 13 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop