千の春
愛の挨拶
岬が隣人の変人、日向に出会ったのは大学二回生の春だった。
一年先に入学し、アパートで下宿していた岬。
入学して一年たち、大学生活にも余裕ができた頃。
一個下の学年が入ってくる、岬にとって二度目の入学式。
その一週間ほど前に、春の陽気と共に日向は隣に引っ越してきた。
最近では引っ越しそばなど隣人に渡す人も少ないだろうに、日向は律儀に岬に引っ越しそば、もとい饅頭を渡してきた。
薄い橙色の包装紙に包まれた饅頭だった。
引っ越しの挨拶に来た日向の、黒縁メガネの奥の眠そうな目が印象に残ってる。
寝癖の残るツンツン髪に、ずぼらな人みたいだな、と岬はその時思った。
「隣に越してきた、日向です。これからよろしく」
眠たげに、それだけ言われた。
岬が住むアパートは、芸術大学に一番近く、入居者もほぼそこの生徒だった。
日向も例に漏れずそうなのだろうということは簡単に予想がついた。
岬は一応の謝辞を述べる。
「ありがとう。私は音科二回生の岬。17時から22時までは部屋でピアノ弾いてるから」
「うん、知ってる。昨日もピアノの音聞こえたし」
「君は美術科?」
「そう」
じゃ、と軽く言って、日向は引っ込んでしまった。
会話の中で彼は一切笑わなかった。
愛想のないやつ、と岬は思ったが、岬だって人のことを言えるほど愛想がいいわけではない。
教授にも何回か言われるのだ。
笑顔で、お客さんを楽しませるように、と。
美術と音楽のこの違いはなんだろう、と岬は思う。
美術は描く人の愛想なんてどうでもいいように、ただそこにある作品が大事だという。
音楽は演奏、奏者の人柄、愛想が、観客に評価される。
考えてもどうしようもないか、と岬はそこで考えるのをやめたが。