千の春
「モーツァルトも言ってただろ。天才の真髄は愛だって」
「言ってたっけ」
「愛し愛されて天才は生まれるんだよ」
満足そうにそう言う千春。
岬は居心地が悪く、落ち着かなかった。
「愛ねぇ」
そう呟いた岬に、千春は目を向けなかった。
ただ、口元に笑みを浮かべただけ。
岬とてさすがに千春の気持ちはわかっていた。
ただ同じピアノという世界で競い合っているから、という理由で岬につきまとっているのではないと。
千春は、岬に恋している。
自信過剰か、私は。と最初は思ったが、そうとしか考えられないくらいに千春は岬にアプローチをかけてきていたのだ。
千春の家でピアノを弾いた、あの春の日はただのきっかけだったのだ。
やれ映画だの、美術館だの。
ちょっと遠出して、隣町の遊園地にでも行こうか、と。
気分が乗れば岬は千春の誘いに乗った。
別に、付き合おうとか好きだとか、千春は言い出さなかった。
言い出さないだろうな、と感じていたから、岬も誘いに乗ったのだ。
千春はちゃんと、岬の得手不得手を知っていた。
岬が千春に望むことも。
「綺麗な空だなぁ」
「青いねぇ」
修学旅行で行った長崎で、原爆の像を見たとき、空は清々しく青かった。
少し小高い位置にあった像。
周りを、段になった住宅が取り囲んでいた。
長崎の街は、連なる街並みに守られているような、変な気分になる場所だった。