【長編】戦(イクサ)林羅山篇
群書治要
元和二年(一六一六年)正月
家康は崇伝と道春を呼び「群書
治要」の版行を命じた。
群書治要は明の古書で唐代の魏
徴(ぎちよう)らが太宗の勅命に
よって古代から晋代までの六七種
の書物の中から政治の参考になる
文章や資料を抜き出して編纂した
もので、五十巻にもなる。
「貞観政要」と並ぶ帝王学の書と
いわれ、禁中並公家諸法度にも
「群書治要を踊習するように」と
記されたほどのものだ。しかしこ
の頃には三巻散逸して四十七巻に
なっていた。
家康はこれを公家や僧侶らに配
り、法度にあるとおり、学問に励
むように促すつもりでいた。
先に刷られた大蔵一覧が全部で
十一冊だから、その作業が困難に
なることは容易に想像できた。
崇伝と道春はすぐに京都所司代
の板倉勝重に大蔵一覧を刷った時
と同じように版木衆の校合、字
彫、植手、字木切らを手配するよ
う手紙を書いた。
家康は崇伝と道春を呼び「群書
治要」の版行を命じた。
群書治要は明の古書で唐代の魏
徴(ぎちよう)らが太宗の勅命に
よって古代から晋代までの六七種
の書物の中から政治の参考になる
文章や資料を抜き出して編纂した
もので、五十巻にもなる。
「貞観政要」と並ぶ帝王学の書と
いわれ、禁中並公家諸法度にも
「群書治要を踊習するように」と
記されたほどのものだ。しかしこ
の頃には三巻散逸して四十七巻に
なっていた。
家康はこれを公家や僧侶らに配
り、法度にあるとおり、学問に励
むように促すつもりでいた。
先に刷られた大蔵一覧が全部で
十一冊だから、その作業が困難に
なることは容易に想像できた。
崇伝と道春はすぐに京都所司代
の板倉勝重に大蔵一覧を刷った時
と同じように版木衆の校合、字
彫、植手、字木切らを手配するよ
う手紙を書いた。