【長編】戦(イクサ)林羅山篇
二つの問い
 この日の家康は上機嫌だった。
それは征夷大将軍を秀忠に譲り、
自分は隠居することを決めてよう
やく緊張から開放されたからだ。
 にこやかに入って来る家康に一
同は平伏した。
「皆、面を上げられよ。な、こう
してわしのもとには優れた賢者が
集まって来る。これでこそ天下は
盤石となろう」
 舟橋はうなずき、承兌長老は久
しぶりに見た家康の笑顔に目を丸
くした。
「では、舟橋殿、相国寺殿、円光
寺殿のお三方に問う。光武と高祖
との間柄は如何に」
 三人は申し合わせたとおり知ら
ないふりをした。
「ならば羅山殿は如何に」
「はっ、光武は後漢の帝であり高
祖となった前漢の劉邦から数えて
九世の孫でございます」
「そうじゃ。ではまた、お三方に
問う。漢武の返魂香(はんこんこ
う)については何れの書物に書か
れているか」
 これも三人は答えられないふり
をした。
「羅山殿は如何に」
「それは白楽天の詩文集である白
氏長慶集と蘇軾(そしょく)の詩
文集である東披志林(とうぱしり
ん)に書かれています。漢武とは
高祖の曾孫にあたる前漢の孝武
帝。返魂香とは火にくべると死者
の姿が煙の中から現れるという香
のこと。この返魂香は孝武帝が少
翁という仙術の修験者に命じて霊
薬を調合して作らせ、これを火に
くべると死んだ李夫人の霊魂がも
どったという故事によります」
「そのとおりじゃ。では最後に皆
に問う。蘭の品種は多くあるが、
屈原(くつげん)が愛でた蘭は何
じゃ」
 これは今までとはまったく分野
の違う意表をついた問いで、舟
橋、承兌長老、元佶長老の三人に
も分からず首をかしげた。
 舟橋は羅山を助けようと言い訳
を考えたが思い浮かばない。
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