【長編】戦(イクサ)林羅山篇
和子の入内
京では後水尾天皇と秀忠の関係
が深刻なものとなっていた。四辻
与津子が女の子を産んだのだ。あ
まりにも都合よく生れたので、こ
の女の子が天皇の子かどうかは疑
わしかったが、天皇が自分の子と
認めた。それを秀忠は無視し、大
坂城の修築を始めて朝廷との戦も
辞さない構えを見せ、天皇への圧
力を強めた。
しばらくして関白だった二条昭
実が亡くなると、秀忠は九条忠栄
を関白とした。これは天皇の役割
を奪うもので、天皇は再び譲位し
て出家することを藤堂高虎に伝え
た。
秀忠はさらに四辻与津子の兄
弟、四辻季継と高倉嗣良を含む天
皇の側近だった公家らを些細な罪
で処罰し、天皇から引き離した。
しかしこれでは天皇をかたくなに
させるだけで進展がない。そこで
京都所司代の板倉勝重に処罰の責
任をおわせて解任し、勝重の子、
重宗を後任とした。
元和六年(一六二〇年)
天皇と秀忠の間で板ばさみに
なっていた藤堂高虎は、天皇の
弟、近衛信尋に「天皇を配流して
自らは自刃する」と伝えた。
信尋はこれを天皇に伝え、この
ままでは朝廷さえも滅ぼされかね
ないと悟った天皇は抵抗すること
をあきらめ、和子の入内を受け入
れる決心をした。
江戸から出発した和子は五月二
十八日に京、二条城に着いたが、
疲れからか病になり、予定より遅
れて六月十八日に無事入内した。
その持参金は七十万石で嫁入り道
具は二条城から御所まで延々と続
いて、公家をも超えた徳川家の威
光を京の民衆の目に焼き付けた。
家康以来の念願だった和子の入
内を果たした秀忠はため息をつい
た。
「これでわしのやれることは全て
やった。後は和子に委ねるしかな
い」
この時、弱冠十四歳の和子に徳
川家だけでなく公家と武家の命運
が大きくのしかかっていた。
が深刻なものとなっていた。四辻
与津子が女の子を産んだのだ。あ
まりにも都合よく生れたので、こ
の女の子が天皇の子かどうかは疑
わしかったが、天皇が自分の子と
認めた。それを秀忠は無視し、大
坂城の修築を始めて朝廷との戦も
辞さない構えを見せ、天皇への圧
力を強めた。
しばらくして関白だった二条昭
実が亡くなると、秀忠は九条忠栄
を関白とした。これは天皇の役割
を奪うもので、天皇は再び譲位し
て出家することを藤堂高虎に伝え
た。
秀忠はさらに四辻与津子の兄
弟、四辻季継と高倉嗣良を含む天
皇の側近だった公家らを些細な罪
で処罰し、天皇から引き離した。
しかしこれでは天皇をかたくなに
させるだけで進展がない。そこで
京都所司代の板倉勝重に処罰の責
任をおわせて解任し、勝重の子、
重宗を後任とした。
元和六年(一六二〇年)
天皇と秀忠の間で板ばさみに
なっていた藤堂高虎は、天皇の
弟、近衛信尋に「天皇を配流して
自らは自刃する」と伝えた。
信尋はこれを天皇に伝え、この
ままでは朝廷さえも滅ぼされかね
ないと悟った天皇は抵抗すること
をあきらめ、和子の入内を受け入
れる決心をした。
江戸から出発した和子は五月二
十八日に京、二条城に着いたが、
疲れからか病になり、予定より遅
れて六月十八日に無事入内した。
その持参金は七十万石で嫁入り道
具は二条城から御所まで延々と続
いて、公家をも超えた徳川家の威
光を京の民衆の目に焼き付けた。
家康以来の念願だった和子の入
内を果たした秀忠はため息をつい
た。
「これでわしのやれることは全て
やった。後は和子に委ねるしかな
い」
この時、弱冠十四歳の和子に徳
川家だけでなく公家と武家の命運
が大きくのしかかっていた。