【長編】戦(イクサ)林羅山篇
臣従要求
林羅山は徳川家康との問答で高
く評価され、伏見城にある家康所
蔵の貴重な書物を閲覧することを
許された。しかし仕官の要請は徳
川家の都合で後回しにされた。
この頃、徳川家では秀忠が征夷
大将軍になる宣下の儀が執り行わ
れた。それに伴って豊臣秀頼を招
いたが秀頼はこれを家臣が主君に
対して臣従要求をしていると解釈
し固辞した。
これはかつて家康が豊臣秀吉か
らの臣従要求を拒み続けた時と立
場が入れ替わった対応だった。
関ヶ原の合戦以後も徳川家は豊
臣家の家臣として振る舞い、豊臣
家恩顧の諸大名との不和を回避し
ていた。
二年前の慶長八年(一六〇三年)
七月には秀吉の生前に約束してい
た秀頼と秀忠の娘、千との婚儀を
行い、家康が秀吉の妹、朝日を正
室として迎え入れたのと逆のこと
をやった。しかしその反面、この
年の三月に家康は征夷大将軍とな
り、江戸に幕府を開いた。これで
は豊臣家をないがしろにしている
と思われてもしかたない。
く評価され、伏見城にある家康所
蔵の貴重な書物を閲覧することを
許された。しかし仕官の要請は徳
川家の都合で後回しにされた。
この頃、徳川家では秀忠が征夷
大将軍になる宣下の儀が執り行わ
れた。それに伴って豊臣秀頼を招
いたが秀頼はこれを家臣が主君に
対して臣従要求をしていると解釈
し固辞した。
これはかつて家康が豊臣秀吉か
らの臣従要求を拒み続けた時と立
場が入れ替わった対応だった。
関ヶ原の合戦以後も徳川家は豊
臣家の家臣として振る舞い、豊臣
家恩顧の諸大名との不和を回避し
ていた。
二年前の慶長八年(一六〇三年)
七月には秀吉の生前に約束してい
た秀頼と秀忠の娘、千との婚儀を
行い、家康が秀吉の妹、朝日を正
室として迎え入れたのと逆のこと
をやった。しかしその反面、この
年の三月に家康は征夷大将軍とな
り、江戸に幕府を開いた。これで
は豊臣家をないがしろにしている
と思われてもしかたない。