【長編】戦(イクサ)林羅山篇
厭離穢土、欣求浄土
 元号が変わった寛永元年(一六
二四年)には、マニラから日本に
やって来たスペインの商船に宣教
師が隠れて乗っていたことが分か
り、幕府はスペイン船の来航を禁
止した。
 その一方で、家光が征夷大将軍
になったことを祝賀するためやっ
て来た朝鮮通信使、三百名を受け
入れ、江戸で対面して良好な関係
を保った。
 道春も書簡の起草をする崇伝の
手伝いをし、副使の姜弘重が春秋
館の学士ということで問答を行
い、日本の学問が優ってきている
ことを実感した。
 道春が江戸にいる間、京の自宅
で四男が誕生した。亀は次男の長
吉が病死した傷心も癒え、育児に
専念した。しばらくして道春から
届いた手紙に亀の身体をいたわ
り、子の様子を気にかける言葉と
共に「子の名は右兵衛」と書いて
あった。

 日光の東照社では陽明門が出来
上がっていた。黄金をふんだんに
使い、優れた匠の技を結集した荘
厳な造りは、家康が旗印にしてい
た「厭離穢土、欣求浄土」を体現
していた。

 この世はけがれ、捨て去るべき
もの。極楽浄土を目指さなければ
ならない。

 それが人の心に伝わるかのよう
に、噂を聞いた人たちが次第に参
拝するようになった。
 天海は人々がキリシタンの弾圧
により、何にすがって生きればい
いのか見失っていると感じてい
た。その迷いを家康が受け止める
神だということを強く示すために
江戸を東の京とすることを構想し
ていた。すでに秀忠から上野に寺
を築く敷地を与えられていた。そ
こに本坊を建てることを急いだ。
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