【長編】戦(イクサ)林羅山篇
洒落の文化
 家康は拓本をながめ、思案して
いた。そこに道春がやって来たの
で手招きした。
「道春、今呼びに行かせようと
思っておった。ちょうどよい。こ
れをどう思う。方広寺の梵鐘の拓
本じゃ」
 家康は拓本の「国家安康」「君
臣豊楽」の部分を指差した。
 それを見た道春は正純と崇伝の
様子が変だった原因がこれだと分
かり、とぼけてみた。
「お恐れながら、文字通りこの国
の平安を願ったものだと思いま
す」
「そうか。崇伝はこの国家安康は
わしの名を分かち、君臣豊楽は豊
臣家を君主として繁栄を願ってい
ると言っておった」
「おお、それは崇伝殿の言われた
ことに間違いありません。で、大
御所様にはなにか違ったお考えで
もおありなのですか」
「いや、そうではない。しかしこ
れをもって軽はずみに事を起せば
豊臣家の思う壺ではないかと考え
ておった」
「さすがわ大御所様、大局を見て
おられる」
「下手な世辞はよいから、道春の
存念を申せ」
「はっ。大御所様のご明察のとお
り、これにより事を起せば世間の
笑い者になるだけでしょう。もし
徳川家への恨みを刻むのなら徳川
の文字か、お恐れながら今の将軍
である上様の秀忠の文字を分つと
思います。親が子に自分の名の一
字を与えることはよくあります
が、それも名を分つことにはなり
ませんか。それに方広寺は秀吉公
が建立した寺、それを承知で大御
所様は再建を薦められたのではな
いですか。仮に豊臣の文字が刻ま
れたとしても何の問題もありませ
ん。大坂には独特な洒落の文化が
あります。これは洒落です。笑い
とばしたほうが世間は大御所様の
心の広さを尊ぶと思います。梵鐘
に名が刻まれることは名誉ではな
いですか」
「やはりそうであろうか。しか
し、わしに戦いを挑んできている
ようにも思うのじゃ。道春が以前
言っておった淀殿の兵法。これが
その布告とも思えるのじゃ」
「あるいわそうかもしれません」
 二人は淀が相当手ごわい相手だ
と身をひきしめた。
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