狂おしいほど惹かれてく(短編集)
「……フランシスさん、ひとつ良いですか?」
「なんでしょう?」
「聖母マリアって、たしか処女受胎でしたよね」
「……」
「ですので、フランシスさんの目的は果たせないのでは?」
言うとフランシスさんはふわふわと視線をさ迷わせて、何か言いかけてはやめる、を何度か繰り返した。そんな様子を見たら、なんだか悪いことをしてしまったような気になった。……のは、一瞬だけ。
何か思いついた顔でにやりと笑って、得意気にこう言った。
「ええ? アイさん、処女受胎がなんですか? 僕は男女が愛し合うと言っただけなのに、ええ? もしかしてアイさん、そういうことを考えていたのですか? いやらしいですねぇ」
「……」
どうしよう。好意を持っていた男性が、尊敬していた上司が、心の底から鬱陶しい。普段のスマートな仕事ぶりや、完璧なレディーファーストはどこに行ってしまったのだ。むしろ会社での姿は偽りで、こっちが本当の姿なのだろうか。
なんだか一瞬で眠気が押し寄せて来て、相槌も忘れて項垂れる。
こんな完璧超人が、なぜか一般市民のわたしと関係を持ちにやってきた。それだけでも奇跡的で贅沢なことなのかもしれないけれど。もっと贅沢を言うのなら、ごく普通に、仕事帰りにディナーに誘ってもらいたかった……。まずはランチでも、なんなら休日にデートをしたっていい。のに……。
どうしてこんな強行に走ってしまったのか……。好意を持ってくれている素振りなんてなかったのに。むしろフランシスさんは誰にでも優しくて、誰とでも楽しくお喋りをしている。このひとはいつから、わたしとこうなりたいと思っていたのだろう……。
「……あれ、アイさん?」
「……」
「あー、ええと……アイさん? もしかして寝てしまったのかな?」
「……」
「それともこれは……無視というものなのかな……?」
「……」
「ええと、こういうときはたしか……」
「……」
「しくしくしく……」
「それ口で言うことですか? 漫画でしか見たことないですよ、その擬音……」
ていうか誰だ、フランシスさんにそんな擬音を教えたのは。人生で使わなくても良い擬音を教えたのは。優秀なフランス人上司に変なことを教えるのはやめてほしい。