狂おしいほど惹かれてく(短編集)
ちゅ、というリップ音とともに唇が離れ、至近距離で目が合う。少し色素が薄い怜くんの瞳に、わたしが映っているのが見えた。漫画や小説で、瞳に自分が映っているという描写をよく見るけれど、あれは本当だったのか。本当に映るものなんだ。
なんてぼんやりと考えていたら、怜くんは「何期待してんの」と。自分からキスしてきたくせに、この言い様。
「風邪、移っても知らないからね」
「そしたら菜津のせいだよ」
「いやいやいや、それ自業自得っていうんだよ」
言うと怜くんはふっと小さく息を吐いて笑うと、わたしから離れて踵を返す。今度こそ帰るらしい。
名残惜しい。
こんなに名残惜しいのは、絶対に怜くんのせいだ。キスなんかしたせいだ。ちょっとだけ、風邪で人肌恋しいせいでもある。
別れの挨拶もないままアパートの通路を進む怜くんが、再び足を止めて振り返る。
そして蛇足のように、追伸のように、おまけのように「僕、今月中は出張ないから」と言った。
ああ、もう、これは。おまけはおまけでも、グリコのおまけだ。ハッピーセットだ。お菓子よりも、ハンバーガーよりも、むしろおまけが楽しみなアレだ。
今度は振り返りもせず、怜くんはすたすたとアパートの敷地内を出て行って、すぐに見えなくなったけれど。わたしはしばらく玄関先に立ち尽くして、さっき触れた唇の感触を思い出していた。
どんな労わりの言葉より、あの追伸が何よりうれしい。
明日も会える。明日もきっと、会いに来てくれる。
(了)