月へのスパート
 7月20日、朝の7時、私は自宅の部屋でエアコンをかけながら寝ていた。携帯電話のアラームで目を覚ましかけたが二度寝してしまった。そして、8時半頃再び目を覚まし携帯を見た。すると、紗英からのメールが来ていた。「修くん、今度、病院へ来るときに私のアシックスの右足の靴を持って来てください。下駄箱に置いてある靴です」メールを見た途端、私は急に眠気が覚めて布団から起き着替えを済ませて病院へ行く準備をした。部屋から台所へ行くと、母が朝食を作っていてくれた。
「おはよう」
母が優しく声をかけてきた。
「おはよう」
私も自然と母に向かって返事をした。しばらくお互い無言のままだった。私は朝食を食べ終わった後、母に対して口を開いた。
「お母さん、紗英のお見舞いに行ってくる」
すると、母が心配そうな表情で私の目を見て言った。
「修ちゃん、この前はごめんなさい。お母さん、反省してる。ねぇ、紗英ちゃんのお見舞いに一緒に行ってもいいかな?」
母はずっと私の顔を見つめたままだった。私は母の表情を見て迷うことなく返事をした。
「うん! 一緒に行こう! その前にさ、高校に寄ってよ。取りに行きたいものがあるんだ」
私と母は家を出て母の運転する車で瀬野高校に向かった。夏の朝、車内はとんでもなく暑く、私は車のエアコンを最大にしてつけた。助手席に座りながら私は携帯で紗英にメールを打った。母と一緒にお見舞いへ行き、靴も持っていくという内容のものだった。20分くらい経ってから紗英からのメールの返信が届き、母と一緒にお見舞いに来てくれるのを楽しそうに待っている様子であった。車は瀬野高校に着き、私は一人校舎の生徒用の玄関口まで向かい紗英の下駄箱を見つけた。そこには紗英の上履きと、アシックスの右足用の靴が置かれていた。靴の中を覗き込むとピンク色のお守りが入っていた。私がこの靴の中を覗き込むのは2回目であった。初めて覗き込んだのは、5月の大会の前日に紗英がバイトに行っている最中だった。私はお守りのことが気になってこっそりと見ていたのだ。私は彼女のアシックスの右足用の靴を持って母が待っている車へと戻り、私と母は瀬野病院へと向かった。
「お母さん、見て、これ。この前、一緒に神社に行った時と同じお守りだよ」
「あら、ほんとね。うふふふ」
私は、母にピンクのお守りを見せた。母は車を運転しながらお守りをそっと見つめて微笑んでいた。私と母はすっかり仲直りをしていた。午前10時半頃に瀬野病院へ着いた。この時はエレベーターを利用して病院の5階へと上がった。紗英の病室のドアをノックして中に入った。
「紗英、具合はどう?」
私は紗英の姿を見た瞬間声をかけた。紗英はベッドの上で横になったまま安静にしていた。
「あっ、修くん、お母さん、来てくれてありがとうございます。少し落ち着いてきて、頭の痛みも取れてきました」
「紗英ちゃん、大変だったけど、よくここまで頑張ったね。今はとにかく無理をしないで、ゆっくり休んでね」
私の母が優しい口調で紗英に声をかけた。
「はい、ありがとうございます。本当にいつも何から何まで感謝しています」
この時、紗英の母親は病院にはいなかった。正午頃に病院に来る予定とのことだった。
「紗英、左足用の靴はどうしたの?」
「ここにあるよ。一昨日、お母さんが家から持って来てくれたの」
紗英の左足用の靴はテレビ台の上に置かれていた。
「やっぱり、2足並べたほうが落ち着くな」
紗英は落ち着いた様子だった。両足揃った靴を見て少し微笑んだ様子だった。すると、私のほうを見つめ笑顔で言ってきた。
「ねぇ、修くん、これ見て」
紗英は右手に白のipodを持っており、ドヤ顔で私に見せつけてきた。
「うわーっ、超カッコいいね! これ、どうしたの?」
「お母さんに買ってもらったの。修くんがいつまでも買ってくれないから。いいでしょー」
紗英はとても元気そうだった。何本も点滴をして前よりだいぶ痩せた感じであったが、表情はとても穏やかで顔色も良かった。お昼の12時頃に紗英の母親が病室へ入ってきた。
「あら、佐藤さん、こんにちは。わざわざお見舞いに来てくれてありがとうございます」
紗英の母親が深々と頭を下げて私と私の母にお礼をしていた。しばらくの間、4人でいろんなことを話していた。30分くらい経ってから私の母が私に話しかけてきた。
「お母さん、紗英ちゃんのお母さんと少し話をしてくるから。修ちゃんはどうする?」
「俺は、適当に帰るから大丈夫だよ」
「お母さん達、病院内にいるから、もし何かあったら必ず連絡してね」
紗英の母親が私達に声をかけた。私の母と紗英の母親が病室を出た。私は紗英と病室で2人きりになった。私は室内を少し興味本位で歩き回った。なんだかそわそわした気分であった。
「紗英、なんか不思議だな。こんなことって初めてだよな」
「そうだね。今までお互い病気や怪我で入院なんてしたことなかったもんね。でも、お見舞いに来てくれるのって嬉しいことだよね」
紗英は微笑みながら話した。私は、そのまま椅子に座り込み彼女の顔を見つめた。
「なぁ、紗英、お前、5月のレースの時も走っていて頭痛くなったのか?」
「覚えてない。でも、そう言われるとそうだった気がする」
紗英は少し言葉を濁すような返事をした。
「なんでもっと早く言ってくれなかった?」
私は真面目な顔で質問した。紗英は一瞬黙ってしまった。何かを思い出すようにしていた。
「ごめん! 頭に負担かけちゃうな。無理にいろいろ思い出さなくていいからな」
紗英が頭の病気であることを急に思い出し私は彼女に慌てて言った。
「走っていて、頭が痛いから脱水症状だと油断してたの。5月の大会前に、夜、修くんにメールしたでしょ? 確か夜中の11時くらい。本当は、あの日バイト終わったのは夜8時だったんだけど、バイトが終わってから急に頭が痛くなって事務室で少し寝てたの。あとね、私、手が震えてた。うまくメールが打てなかったの。でもね、どうしても修くんに試合を観に来てほしかった。私の走りを見てほしかったの」
私はこれまでの紗英の数々の異変に気づけなかったことを後悔した。
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