ハニートラップにご用心

「今日、急ぎの仕事は?」

「特にないけど……待て、先に要件を頼む」


不気味なくらいに満面の笑みを浮かべる同期に不信感を抱いたらしい柊さんは、コーヒーを持っていない左手を前に出して制止の合図をした。


「一緒に取引先に商品を届けに行くわよ」


まるで近所のスーパーに買出しに行こう、といった雰囲気で、何でもないことのように土田さんがとんでもないことを言い出すので私は思わず勢い良く立ち上がって二人を凝視した。


「あは、拒否権ない感じ?」

「工場の車はもう出払っていて対応出来ないのよ。だからうちの会社のトラックを借りるわ」


事情を詳しく説明しなくても全てを理解したらしい柊さんはお腹を抱えて笑い出した。
土田さんに向かって「さっすがお前、やることが違うわ」とかなんとか言って面白そうに背中を叩いてる。


「千春ちゃんは急いで納品書を作ってくれる?」


柊さんにバシバシと背中をしばかれながら、土田さんは私の方を向いてそう言った。

私が言葉に詰まって唾を飲み込むと、彼は優しく目を細めて、急かすこともせずにじっと私の返事を待った。


「……は、はい。本当に、すみません……」


ミスにミスを重ねるのが一番最悪なことだ。わかっているからこそ動揺から復帰できない。

落ち着け、落ち着け、大丈夫。土田さんを信じて落ち着いて。

そう思えば思うほどキーボードを打つ手が震えてミスタッチを繰り返してしまう。それを見かねた土田さんが、私の力の入らない手の上から自分のそれを重ねた。


< 35 / 121 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop