たった一度のモテ期なら。
「いいわけないだろ。社内はやめとけ」
「なんでそんなこと西山に決められなきゃいけないのかわかんない。私のことなんて気にしなきゃいいでしょ」
強く言い返したつもりだったのに声が揺れて、堪えきれなかった涙が溢れ出した。
見られたくなくて逃げようとしたのに、私の足が出るより早く西山が腕を壁について逃げ道をふさぐ。
「いいからやめとけ」
頰に伸びた長い指が目尻を拭いて、そのまま髪をすく。
少し冷えたその指の感触に、全身の神経が首筋に集まって沸騰しそうになる。
そのまま動けなくなった耳元で「頼むから」と囁くような声がして、ぞくっとして目を閉じてしまった。
指よりも暖かく柔らかい感触が、全神経を今度は唇に集めるのを感じた。
悔しさも涙も全部吹き飛ぶような、世界がぐるりとひっくり返るような。
どこか呆然としたまま目をあげる。
今、キスしたの?
願うことさえできなかったものを受け取って、でも起きた出来事の意味がわからなかった。
何か言おうとして開きかけた口をまた閉じた西山は、私をもう真っ直ぐには見ていなくて苦い顔をしている。
壁に背を付けたまま固まっている私の耳に、
「ごめん、間違えた」
と小さな声が届いた。
なんで?
そう問いかけたくて、でもまた目が合った瞬間の沈黙に私は耐えられなかった。
「わ、私、急いでるんだった」
それだけ言うと胸に抱えた書類を抱きしめて走った。
「影森」
と呼ぶ声が聞こえた気がしても、振り返らずに角を曲がった。
西山は、それ以上追いかけては来なかった。