The after story【1】 - 魔王に恋した勇者のお話 -
「お疲れ様です」
 主居館の外回廊から眺める月は衛兵たちの密かな楽しみだ。
 ぼんやりと天空を仰いでいたベテラン衛兵は、緊張に硬くなった声に振り返る。
 手提げランタンの光に浮かび上がっていたのは髭もない、細い顎の若者だった。
「交代の時間です」
「見ない顔だな」
「はっ! 本日より王城の警備を務めることとなりました」
 訓練学校そのままに、新米衛兵はかしゃんと踵を合わせる。
「気合十分だな。そんな様子じゃ、一晩もたないぞ」
「はっ!」
 新米衛兵は瞳を輝かせてきびきびと返した。
「お言葉ですが、いやしくも城内警備兵の一員となりましたからには一瞬たりとも気を抜くわけにはまいりません」
 頼もしい限りだ。
 ベテラン衛兵はふっと苦笑すると、
「…ところでお前、今日からだと言ったな。就任式はいつだった?」
「五日前です」
「陛下もご臨席されたか?」
「!」
 それまで凜々しかった新米衛兵が、突然もの凄い早さで目を逸らした。
 ベテラン衛兵はすぐにピンとくる。
「…ははぁ、さては陛下のお姿を直に拝見したのは初めてだな」
「えぇ、まぁ…」
「危険な方だったろう」
「…」
 答えようとしない若者に、ベテラン衛兵はにやりと歯を見せた。
「顔が真っ赤だぞ」
「なっ…」
 とっさに新米は顔を覆う。
「…ははっ、そんなうろたえるなよ。誰もが通る道さ」
「そんなっ、私は…」
 新米衛兵は恥ずかしさに声を詰まらせたが、強引に咳払いすると、
「とっ、とにかく! 私にとってこのたびの着任は夢のようなことです。…い、いかに陛下が危険な方であろうと、その任務に私情など…あっ、ありえません…!」
「分かった、分かった」
 ベテラン衛兵は両掌を見せると、訳知り顔で頷いた。
 ひとしきりからかって気が済んだのか、仮眠のためにくるりと踵を返す。
「ま、今の王都は平和そのものだ。地方貴族も大人しいし、粗暴な『意思なき魔族』(人語を解さない魔族のこと)は辺境の地で抑えられている」
「はぁ…」
「せいぜい居眠りに気を付けろ。じゃあな」
 最後は欠伸混じりに言って、ベテラン衛兵は立ち去った。
 ぽつりと残された新米兵士は無意識に握りしめていた拳をほどくと、ちらりと視線を上げる。
 学校の教官に聞いていたとおり、満天の星空は夜警の慰めになるほど見事だった。
「…まぁ、平穏が一番ですけど」
 まだ少し胸がドキドキしている…。
 星々に向かって深呼吸する彼が自分のすぐ近く―――回廊の真上の外壁に潜む影に気付く様子はない。

 暗闇の中で、青い二つの瞳がゆっくりと瞬いていた。
「まぁ、今の王都は平和そのものだ。地方貴族も大人しいし、粗暴な『意思なき魔族』は辺境の地で抑えられている」
 早鐘のような鼓動が耳元で大きく響く。
 足下から聞こえてくるのは二つの男の声だ。
「せいぜい居眠りに気を付けろ。じゃあな」
―――最低でも、二人の魔族が自分のすぐ傍にいるのだ。
 人影は息を殺して聞き耳を立てていたが、話し声はすぐに止んでしまった。
 しばらく待っても再開することはないと知ると、おもむろに動き出す。
「…」
 月明かりの下、額に汗を浮かせていたのは若い娘だった。
 それも綺麗な若い娘だ。
 闇夜に美しく波打つ髪は珍しい水色。
 好対照に深い瑠璃色の瞳は大きく、その品良く整った顔つきは良家の令嬢といった雰囲気さえある。
 …しかし、男勝りな軽装は泥で汚れ、可愛らしい顔にも土埃がこびりついている。汗が通ったあとだけが、くっきりと白い。
 なにより、彼女が立っていたのは―――
「…」
 びゅおうびゅおうと耳元で風が鳴ってる。
 娘が石壁に胸を擦りつけながら慎重に横歩きしていたのは、二〇センチもないような外壁の装飾部分だった。
 もちろん、手すりなどはない。
「…」
 下だけは見ないよう、歯を食いしばる。
 こうしてヤモリのように外壁を登り始めてどのくらい経ったものか―――いまや地上ははるか遠く、もし落ちれば命はない。
 どうしてこんなことになったのか。
 疲れ果ててぼんやりする頭の片隅で、娘は思い返す。
 誰にも見つからず、敷地内に侵入したまでは完璧だった。
 そして、もっとも警備が薄いと思われる場所…外壁を登り始めたときも意気揚々だった。
 間抜けでお上品な魔族さま方は、まさか人が外壁を登るとは夢にも思うまい。
 あとはある程度登ってから、窓かどこかから城内に入り込めば―――
 ところが、いっこうに都合のいい窓を見つけられないまま、月だけがどんどん高くなっていた。
 外回廊には必ず見張りがいるし…。
「…陛下だって」
 じりじりと足を進める娘の脳裏に、先ほどの会話が蘇る。
 今この世界に君臨する王といえばただ一人、魔王陛下だけだ。
 目を背けたくなるほど極悪で、耳を塞ぎたくなるほど残虐な魔族の王。
 噂によると、天候の良し悪しで人の首をはね、晩餐後の余興で臣下を拷問し、何よりの好物は『人間』の若い娘を生きたまま火で炙った、生娘のローストだという…。
 多少尾ひれがついているものかと思っていたが、同胞にまで恐れられているとは、なんという悪漢なのだ。
「火とか、吐いたりして」
 物語に登場する邪悪な竜は、たいてい火を吐く。ならば、長である魔王もそれくらいできても不思議はない。
 いまだに一度も目にしたことのない魔王の姿をあれこれと想像していると、突然娘の左手に痛みが走った。
「っ」
 こわごわ見ると、小指の爪が小さく割れていた。
 長い時間、石壁の隙間に食い込ませていたためだろう。
 とたんにどっと疲れが押し寄せてきて、娘の目が潤む。
 …だが、
「父さん…」
 娘は奥歯を噛みしめると衝動を押し込めた。
 故郷の父は最初から反対していた。
 無理だと言っていた。
 こんなところでめそめそ泣いていては、なんのために家出同然に飛び出してきたのか分からない。
「まだやれる…大丈夫…」
 とにかく窓だ。
 もうちょっとだけ…、気を取り直した娘の目に、ぼんやりと白いものが飛び込んできたのは、そのときだった。
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