The after story【1】 - 魔王に恋した勇者のお話 -
遭遇は突然に
娘の視界に入ってきたのは、半月状のバルコニーだった。
十メートルほど先で、暗闇の中にぼんやりと白く浮かび上がっている。
「!」
娘は慌てて目をこすった。
バルコニーは一つ下の階のようだ。足場からはざっと見たところ、三メートルは低いだろう。
飛び降りるには少し怖い高さだ。
「…」
それでも、気力の面でも体力の面でも、他の侵入口を探す余裕はない。
娘がゆっくりと近づいていくと、バルコニーには一つの人影があった。
ガゼボ(庭園東屋)に置いてあるような優美な曲線を描く白いテーブルと椅子が一脚。
物音はない。
話し声もない。
「…」
注意深く周りを伺ってみたが、他に人の気配はまったくなかった。
バルコニーに面した室内も暗く沈んでいる。
「…」
娘は大きく息を吸うと、一気に吐き出した。
そろそろと近づいていくと、バルコニーの様子がよく見えてくる。
テーブルの上には細長いグラスが一つと少しのつまみ…、どうやら月身酒を楽しんでいるようだ。
「…」
娘は少しだけ視線を上げて、夜空を眺めた。
見渡す限りに広がる森は闇に沈み、遠くには雪を被った山々が連なっている。とりわけ頭上で輝く星々は圧巻で、確かに世界を丸ごと手に入れたような気分だ。
…そう思って、娘の心に暗い炎が灯る。
世界の覇者、魔族の王もこの城のどこかで美しい星空を楽しんでいるのだろう。
娘は腰のベルトに挟んだ短剣にそっと手をやった。
目をすがめて、人影を観察する。
おそらく、男だ。
娘が王都で見かけた女性たちはみんな、鳥籠のような曲線と長い裾を持つドレスを着ていた。
一方、目の前の人物はすっきりとしたシルエットで黒い髪も短く、結い上げている様子はない。
それでも上着にはたっぷりとした毛皮飾りが付いている…故郷にいた男たちの野良着と比べて、なんと優美な姿だろうか。
その上、帯剣もしていないことから考えると、護衛を連れて歩くような、身分いやしくない人物に違いない。
うまくいけば人質にできるだろうか。
いや、欲をかくのは禁物だ。
あくまで慎重に―――
「!」
突然娘が息を呑んだ。
テーブルの上、グラスの近くにある小瓶に見覚えがあった。
水晶を丁寧にカットした、玉ねぎに似た形。特徴的なのは、瓶の口が水鳥の首のように、細く長いところである。
記憶が正しければ、あれは毒物だ。
娘の故郷の村でも、たまに目にすることがある阿片と似た作用を持つのだが、それの何倍も凶悪な液状の薬だ。
慰みに阿片を使う者が最終的に手にするもので、数滴でも口にしたら最後、つかの間の陶酔の後には速やかな死が待つのみだという。
大変高価なので、娘も実物を見たことはない。
しかし、行商人の持つカタログに描かれていた絵は、まさにグラスの近くにある小瓶そのままだった。
「!」
動揺する娘の目の前で、椅子に腰かけた人物はごく自然な動作で毒薬の瓶の蓋を開けた。
そのまま、なにかの調味料のようにグラスに注いでしまう。
「…嘘でしょ」
なんて間が悪いのだ。
娘が小さく舌打ちする間にも、グラスは傾けられようとしていた。
鼓動が、衛兵から隠れていたときと違う意味で乱れる。
―――いや、なにも怯える必要などない。
これはかえって好都合だ。目の前の魔族が死んでしまえば、易々と侵入できる。
それになんといっても、相手は魔族だ。
魔族は多くの『人間』の命を奪って、今でも辛い肉体労働をさせ、『人間』たちのことを馬鹿にして嫌っているのだ。
だから娘だって―――
「…この馬鹿! なにやってんのよ!」
気が付くと娘は声を張り上げていた。
自分の出した声にひやりとしたときにはすでに、足は勢いをつけて石壁を蹴りつけている。
そう、分別があれば、最初からこんなところにはいない。
時間がない。
「?」
突然の大声に男は驚いたようだった。仰ぎ見ようと、娘のほうに振り返る。
しかしその前に、短い放物線を描いた娘が彼の頭上に影を落とした。
「なっ…?」
派手な音に、近くの木の枝で羽を休めていた鳥が驚いて飛んでいった。
十メートルほど先で、暗闇の中にぼんやりと白く浮かび上がっている。
「!」
娘は慌てて目をこすった。
バルコニーは一つ下の階のようだ。足場からはざっと見たところ、三メートルは低いだろう。
飛び降りるには少し怖い高さだ。
「…」
それでも、気力の面でも体力の面でも、他の侵入口を探す余裕はない。
娘がゆっくりと近づいていくと、バルコニーには一つの人影があった。
ガゼボ(庭園東屋)に置いてあるような優美な曲線を描く白いテーブルと椅子が一脚。
物音はない。
話し声もない。
「…」
注意深く周りを伺ってみたが、他に人の気配はまったくなかった。
バルコニーに面した室内も暗く沈んでいる。
「…」
娘は大きく息を吸うと、一気に吐き出した。
そろそろと近づいていくと、バルコニーの様子がよく見えてくる。
テーブルの上には細長いグラスが一つと少しのつまみ…、どうやら月身酒を楽しんでいるようだ。
「…」
娘は少しだけ視線を上げて、夜空を眺めた。
見渡す限りに広がる森は闇に沈み、遠くには雪を被った山々が連なっている。とりわけ頭上で輝く星々は圧巻で、確かに世界を丸ごと手に入れたような気分だ。
…そう思って、娘の心に暗い炎が灯る。
世界の覇者、魔族の王もこの城のどこかで美しい星空を楽しんでいるのだろう。
娘は腰のベルトに挟んだ短剣にそっと手をやった。
目をすがめて、人影を観察する。
おそらく、男だ。
娘が王都で見かけた女性たちはみんな、鳥籠のような曲線と長い裾を持つドレスを着ていた。
一方、目の前の人物はすっきりとしたシルエットで黒い髪も短く、結い上げている様子はない。
それでも上着にはたっぷりとした毛皮飾りが付いている…故郷にいた男たちの野良着と比べて、なんと優美な姿だろうか。
その上、帯剣もしていないことから考えると、護衛を連れて歩くような、身分いやしくない人物に違いない。
うまくいけば人質にできるだろうか。
いや、欲をかくのは禁物だ。
あくまで慎重に―――
「!」
突然娘が息を呑んだ。
テーブルの上、グラスの近くにある小瓶に見覚えがあった。
水晶を丁寧にカットした、玉ねぎに似た形。特徴的なのは、瓶の口が水鳥の首のように、細く長いところである。
記憶が正しければ、あれは毒物だ。
娘の故郷の村でも、たまに目にすることがある阿片と似た作用を持つのだが、それの何倍も凶悪な液状の薬だ。
慰みに阿片を使う者が最終的に手にするもので、数滴でも口にしたら最後、つかの間の陶酔の後には速やかな死が待つのみだという。
大変高価なので、娘も実物を見たことはない。
しかし、行商人の持つカタログに描かれていた絵は、まさにグラスの近くにある小瓶そのままだった。
「!」
動揺する娘の目の前で、椅子に腰かけた人物はごく自然な動作で毒薬の瓶の蓋を開けた。
そのまま、なにかの調味料のようにグラスに注いでしまう。
「…嘘でしょ」
なんて間が悪いのだ。
娘が小さく舌打ちする間にも、グラスは傾けられようとしていた。
鼓動が、衛兵から隠れていたときと違う意味で乱れる。
―――いや、なにも怯える必要などない。
これはかえって好都合だ。目の前の魔族が死んでしまえば、易々と侵入できる。
それになんといっても、相手は魔族だ。
魔族は多くの『人間』の命を奪って、今でも辛い肉体労働をさせ、『人間』たちのことを馬鹿にして嫌っているのだ。
だから娘だって―――
「…この馬鹿! なにやってんのよ!」
気が付くと娘は声を張り上げていた。
自分の出した声にひやりとしたときにはすでに、足は勢いをつけて石壁を蹴りつけている。
そう、分別があれば、最初からこんなところにはいない。
時間がない。
「?」
突然の大声に男は驚いたようだった。仰ぎ見ようと、娘のほうに振り返る。
しかしその前に、短い放物線を描いた娘が彼の頭上に影を落とした。
「なっ…?」
派手な音に、近くの木の枝で羽を休めていた鳥が驚いて飛んでいった。