The after story【1】 - 魔王に恋した勇者のお話 -
竜とチョコレート
 部屋に入った瞬間、ほのかに甘い香りがした。
 奇妙に思い、首をめぐらせた勇者は息を呑む。
「…」
 窓から差し込む月明かりに浮かび上がっていたのは、美術品のように見事な調度の数々だった。
 白で統一された壁と天井は木と石で整えられていて、薄暗い中でも目が覚めるほどに美しい。
 それが村の講堂のような広さで奥に続いているのだった。見上げれば呆れるほど高い天井には、銀色の塗料で精緻な模様が描かれていた。
「暗いか? 少しだけ灯りをつけようかの」
 呆然としていた勇者は暢気な声で我に返る。
 壁沿いに設えられた優美なチェストから、陛下が燭台を出していた。
「…」
「どうした、そんな顔をして」
 応えない勇者に陛下は怪訝そうな声を出す。
「…なんか」
「うん?」
「普通だね…」
 窓の傍には大きな花瓶が飾られ、季節の花々が山と生けられている。
甘い香りはここからか。
「どういう意味?」
 燭台に火を灯しながら、陛下は困ったように笑う。
「…もっとこう、」
「うん」
「気味の悪いものはないの? 人の骨とか、血だらけの刃物とか…」
「…うん?」
「拷問用の鞭とか…」
「…」
 不審げに辺りを見回す勇者に、陛下は片眉を上げた。
「なにを期待していたのか知らんが…、残念だったね。あいにくと居間に人の骨があるような生活をしたことはないな」
 そんなはずはない。
 ―――魔王といえば悪の権化で、その王城には気味の悪い魑魅魍魎どもが巣くっているものだ。
 陰気で骨董品のようなデザインの家具にはもれなく蜘蛛の巣が張っていて、すきま風が鳴らす音は亡霊の恨み声。
 凶暴で面妖な従者たちはマナーもわきまえないものだから、食い散らかしが床に転がり、ねずみたちが駆け回る…。
「…生首もない…」
「どんな怪奇小説だ」
 陛下はうそ寒げに『人間』の娘を見返して、ため息をつく。
「ま、とりあえず落ち着きたまえ」
近くにある猫足のソファに目を向ける。
「どうぞ」
「…いいわよ、別に」
「僕は座るよ。この年になると立ち話が辛くての」
 あっさり言うと、勇者に流し目を送ってから一人でさっさと腰掛けてしまう。
 傍のローテーブルに置いた燭台を少し動かしてから、リラックスした様子で足を組んだ。
「お腹は? 空いていないか? チョコレートならあるよ」
「…魔族からもらったチョコなんて食べるか、馬鹿」
 勇者は鼻の頭にシワを寄せる。
「そう? 僕は食べるよ」
 威嚇する『人間』の小娘など気に留めるふうでもなく、陛下はテーブルに置いてあった小箱のふたを取った。
 かぽりという音に気を引かれて、勇者はとっさにそちらを見る。
 現れたのは艶々と美しいボンボン・ショコラだ。
「!」
「今日、王室ショコラティエが新作だと持ってきたばかりのチョコレートなんだが、そうか、勇者はいらんのか。まぁ、無理強いはいかんな」
 勇者の視線が思わず小箱に釘付けになる。
 故郷の村では特別な日にしか口にできない黒い宝石。
 その上体は疲れ切っていて、目の当たりにするといつも以上に魅力的だ。
「あえて中身は聞かなかったんだが・・・、ん、これはプラリネだな。香ばしくて、なかなか好い」
 刺さるような視線を面白がって、陛下は美しいショコラを次々と口に放り込んでいく。
「よく舌の上で溶かせというけど、ボンボンはかみ砕いてこその食感じゃあないかな。僕はそう思うけど」
「…」
「こちらは果実のクリームか。パッションフルーツかな」
「―――あのっ」
 気がつくと、声を上げていた。
 陛下はにっこりと笑うと、綺麗な顔を勇者に向ける。
「なにかな、お嬢さん」
「あのさ、あの…」
 ショコラを見てから陛下にちらりと目をやって、またショコラを見る。
「…全部食べちゃうの?」
「だって僕以外に食べてくれる人がいないのだもの」
「…」
 勇者が再び黙り込むと、陛下は白い指先でまた一つショコラをつまむ。
「あっ、あのっ…」
「なんだい」
「その…美味しい?」
 おずおずと勇者が聞くと、陛下はくすりと笑った。
「どうぞ。お食べ」
 優雅な所作で箱を勇者のほうへ押し出す。
 ろうそくの炎が揺れると、ショコラがきらりと光る。悪魔的な光景だった。
< 6 / 9 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop