The after story【1】 - 魔王に恋した勇者のお話 -
一口ごとに、上品な甘さが頭の芯を震わせる。
「美味しいかい?」
夢中でショコラを口に運ぶ勇者に、テーブルを挟んで向かい合わせに座った陛下は微笑む。
「…お腹減ってるからなんでも美味しいよ」
「そうか」
勇者の嫌みにも陛下は朗らかに笑うだけだ。
「こんなにお腹を空かせているなんて可哀想に。きちんとお金は持っているのか?」
「うるさい」
「もし手持ちがないのなら僕が小遣いをあげるから、帰りは十二番街のデリのハーブチキンを試してみるといい。あそこの鶏は美味しいよ、放し飼いなんだ」
「…うるさいな!」
脳天気な言い草に苛立って、勇者は声を荒げる。
「王都の市街なんて通れるわけないでしょ!」
「どうして」
「魔族がうようよいるのよ。来るときだって大変だったんだから」
王都に近づくにつれて関所は増えていく。通行証を持たない勇者は王都の少し手前で荷馬車に忍び込んでからは、ただ息を潜めているほかなかったのだ。
「…なるほど。それでそのように奔放な姿をしていると」
「…座れって言ったのはあんたなんだからね。知らないわよ」
泥だらけの勇者は早口で言った。
綿のたっぷりと詰まったソファは絶妙な弾力で、極上の座り心地だ。表面に施された刺繍も舌を巻くほど緻密で、勇者には値段の見当もつかない。
緊張に背筋が強ばりそうになるのをなんとか誤魔化そうと、勇者は無理矢理笑う。
「ま、いい気味ね。泥汚れはなかなか落ちないのよ」
「平気さ。張り替えればいいことだもの」
陛下は眩しいものでも見るような目で若い娘を見返す。
「意気込んで乗り込んできた割に優しいな、君は」
「な…っ」
暗がりの中でもそうと分かるほど勇者の顔が赤くなる。
なんという危険な魔族なのだ。
「…そういう顔するの止めて」
「僕の顔がなにか?」
「だからっ、そのっ…」
口ごもった勇者は陛下の金色の瞳にからかうような光を見つけて、ますます頭に血が上る。
とんだ性悪じじいだ。親切な素振りに柔らかな口調。しかし他人を動揺させて愉しむさまは、まさに魔物の所行である。
むっとした途端、勇者は我に返る。
そう、のんびりとお菓子をご馳走になっている場合ではない。
最後にもう一つショコラを食べると、勇者は怖い顔を作る。
「あんたなにを企んでるの」
「勇者。口の端」
陛下が真顔で差し出してくるハンカチを勇者は奪い取った。
「…なにを企んでるの」
ショコラを拭って低い声を出す。そんな娘を鼻で笑うと、陛下は足を組み替えた。
「なにも」
「嘘言え。人質かなにかにしようって魂胆? 残念ね、うちの村は貧乏だし、うちの実家はもっと貧乏よ」
「面白いな、君」
まじまじを見つめられて、勇者は口をへの字にする。
「馬鹿にしてんの? あっ、もしかして労役? 私の命の保証と引き替えに、さらなる労役を村に課そうとしているのね?」
他に考えられない。勇者としては正解の手応えがあったが、陛下は薄く笑うだけだ。
綺麗な顔をじっと向けられて、勇者は身じろぎする。
「図星? なんか言いなさいよ」
「明日帰してしまうのが惜しいな…」
「は?」
低すぎる呟きを聞き取れず、勇者は眉根を寄せる。
陛下は目を伏せて苦笑した。
「なんでもない。ところで腹は? ひとまず落ち着いたのなら、今夜はもう寝なさい。明日はたっぷりとした朝食を用意してあげるから。それからすぐに発ちたまえ…あぁ、通行証も持たせよう」
「馬鹿言わないで。なんで普通にご飯もらって帰らなきゃいけないのよ!」
「他になにか?」
まるで相手にしようとしない魔王陛下に勇者は目の下にしわを刻む。
無言で立ち上がると、二人の間にあるローテーブルをガンッと土足をで踏みつけた。
衝撃で燭台が揺れる。
「いい加減にして」
陛下はちらりと勇者の靴を見て、彼女の顔に視線を戻した。
綺麗な形の唇は微笑んだままだ。
面白がるような目つきに勇者の苛立ちが増す。
そのまま乱暴な足取りでテーブルを踏み越えると、勇者は勢いよく陛下のクラヴァットを掴んだ。馴染みのない感触だった。これが絹か。
「乱暴はおよしよ」
「うるさい」
座ったままの陛下が笑いの滲む声で抗議する。
強引に上向かされた顎の曲線も、さらりと黒髪が滑り落ちる首筋も完璧な美しさだ。暗い中でも仄白いその首筋に、勇者は一度は鞘に収めた短剣を突きつける。
「言ったでしょ。私はあんたを倒しに来た勇者よ」
少し手元が狂えばすぐに刃が白い肌に食い込む。
それでも陛下は愉快そうだ。
「聞いたよ。何度聞いても懐かしい響きだ…。昔は大勢来たものだよ、熊のような大男がね」
その点、君は踊り子のごとく美しい。
黙って勇者が首を絞める力を強めると、陛下はなおも笑い声を立てる。
「すまん。今のはセクハラか。年寄りは加減が分らんのだ。つい思ったことを口に出してしまう」
「余裕ね」
「そうかな…」
息苦しさに陛下の軽口が少し擦れる。
「余裕というのは…、いささか消極的な表現だな」
「…?」
わずかに眉を寄せた勇者の手―――短剣を握りしめる右手に、陛下はそっと自らの手を重ねた。
「どちらかというと、楽しい」
室内なのに、陛下の手はひんやりとしていた。
滑らかな感触で、傷跡もなければ剣だこもない。それでも勇者のそれよりは二回りほど大きく、関節が骨張っている男の手だ。
「この剣は故郷の村で鍛えたのか? 綺麗な光を宿している」
「な…っ」
最初はなんのつもりか分からなかった。
しかしすぐに気付いて勇者の顔が強ばる。
「…放して」
「手入れがいいのかな」
「ちょっと…あのっ」
「それとも、」
じんわりと、陛下の手が勇者の手ごと短剣を圧迫してきていた。
「使うのは今日が初めて?」
声の調子はなにも変わっていなかった。そう思って陛下の顔を見返した勇者は短く息を呑む。
月の光を集めたような黄金の瞳の真ん中で、瞳孔が細く尖っていた。
「やっ…」
混乱しながらも勇者はなんとか短剣を押し戻そうと抵抗したが、びくともしない。
白く上品な手からは想像できない力だ。
見る間に研ぎ澄まされた刃がひたりと首筋に押し当てられた。
「やだ…」
勇者の目に焦りが浮かぶ。
「やめてよ」
皮膚を破った感触はなかった。
ただ真っ赤な血が細い筋を描いたのを見て取って、
「…やめてよ!」
堪えきれずに勇者は悲鳴を上げた。
その声に陛下は苦笑すると、あっけなく手を放した。
力の抜けた勇者の手から滑り落ちた短剣は音もなく絨毯の上に落ちる。
短剣が手から離れた途端、ドッドッと心臓がすごい音を立てて動き出した。
「どうした?」
相変わらず陛下の声音に変化はない。
動揺した勇者はよろめくように半歩後ずさる。得体の知れない恐怖から逃れようと、もう半歩足を引くとローテーブルにぶつかった。
無様な様子が面白かったのか、陛下は鼻で笑った。
薄い表皮を一枚か二枚裂いただけの浅い傷を彼は白い指でおざなりに拭う。
「絶好の機会だったのに。お腹でも痛い?」
「…」
薄く開いた口元からは真珠色の犬歯が覗いていた。歌うような口調で、瑞々しい声で、辛辣に。
「腰抜けめ」
娘の怯えを笑う。
「倒すだと? 仕留める覚悟も持たずによく言う」
老獪な魔族の王の顔をして、この世の誰よりも美しい男はソファの背もたれに深く身を預けた。
一気に存在感が肥大化する―――まるで竜だった。
太い尾をほんの少し振れば、簡単に人を圧殺できると知っている強者の目差しだ。
『人間』は本能的に、血の濃い魔族に恐怖心を抱くようにできている。正面からの侮辱にも、勇者の唇からは震える吐息が漏れるだけだ。
怖い。
「…」
理解が追いつかない。
彼は今なにをしたのか。
拭ったときに付いたのか、陛下の首回りのレースはわずかに赤く染まっていた。
「なん、なんで…」
ようやくそれだけ呟いた瞬間だった。
「…?」
いきなり喉の奥から衝動がこみ上げてきたかと思うと、堪える間もなく勇者の目から涙が零れた。
「美味しいかい?」
夢中でショコラを口に運ぶ勇者に、テーブルを挟んで向かい合わせに座った陛下は微笑む。
「…お腹減ってるからなんでも美味しいよ」
「そうか」
勇者の嫌みにも陛下は朗らかに笑うだけだ。
「こんなにお腹を空かせているなんて可哀想に。きちんとお金は持っているのか?」
「うるさい」
「もし手持ちがないのなら僕が小遣いをあげるから、帰りは十二番街のデリのハーブチキンを試してみるといい。あそこの鶏は美味しいよ、放し飼いなんだ」
「…うるさいな!」
脳天気な言い草に苛立って、勇者は声を荒げる。
「王都の市街なんて通れるわけないでしょ!」
「どうして」
「魔族がうようよいるのよ。来るときだって大変だったんだから」
王都に近づくにつれて関所は増えていく。通行証を持たない勇者は王都の少し手前で荷馬車に忍び込んでからは、ただ息を潜めているほかなかったのだ。
「…なるほど。それでそのように奔放な姿をしていると」
「…座れって言ったのはあんたなんだからね。知らないわよ」
泥だらけの勇者は早口で言った。
綿のたっぷりと詰まったソファは絶妙な弾力で、極上の座り心地だ。表面に施された刺繍も舌を巻くほど緻密で、勇者には値段の見当もつかない。
緊張に背筋が強ばりそうになるのをなんとか誤魔化そうと、勇者は無理矢理笑う。
「ま、いい気味ね。泥汚れはなかなか落ちないのよ」
「平気さ。張り替えればいいことだもの」
陛下は眩しいものでも見るような目で若い娘を見返す。
「意気込んで乗り込んできた割に優しいな、君は」
「な…っ」
暗がりの中でもそうと分かるほど勇者の顔が赤くなる。
なんという危険な魔族なのだ。
「…そういう顔するの止めて」
「僕の顔がなにか?」
「だからっ、そのっ…」
口ごもった勇者は陛下の金色の瞳にからかうような光を見つけて、ますます頭に血が上る。
とんだ性悪じじいだ。親切な素振りに柔らかな口調。しかし他人を動揺させて愉しむさまは、まさに魔物の所行である。
むっとした途端、勇者は我に返る。
そう、のんびりとお菓子をご馳走になっている場合ではない。
最後にもう一つショコラを食べると、勇者は怖い顔を作る。
「あんたなにを企んでるの」
「勇者。口の端」
陛下が真顔で差し出してくるハンカチを勇者は奪い取った。
「…なにを企んでるの」
ショコラを拭って低い声を出す。そんな娘を鼻で笑うと、陛下は足を組み替えた。
「なにも」
「嘘言え。人質かなにかにしようって魂胆? 残念ね、うちの村は貧乏だし、うちの実家はもっと貧乏よ」
「面白いな、君」
まじまじを見つめられて、勇者は口をへの字にする。
「馬鹿にしてんの? あっ、もしかして労役? 私の命の保証と引き替えに、さらなる労役を村に課そうとしているのね?」
他に考えられない。勇者としては正解の手応えがあったが、陛下は薄く笑うだけだ。
綺麗な顔をじっと向けられて、勇者は身じろぎする。
「図星? なんか言いなさいよ」
「明日帰してしまうのが惜しいな…」
「は?」
低すぎる呟きを聞き取れず、勇者は眉根を寄せる。
陛下は目を伏せて苦笑した。
「なんでもない。ところで腹は? ひとまず落ち着いたのなら、今夜はもう寝なさい。明日はたっぷりとした朝食を用意してあげるから。それからすぐに発ちたまえ…あぁ、通行証も持たせよう」
「馬鹿言わないで。なんで普通にご飯もらって帰らなきゃいけないのよ!」
「他になにか?」
まるで相手にしようとしない魔王陛下に勇者は目の下にしわを刻む。
無言で立ち上がると、二人の間にあるローテーブルをガンッと土足をで踏みつけた。
衝撃で燭台が揺れる。
「いい加減にして」
陛下はちらりと勇者の靴を見て、彼女の顔に視線を戻した。
綺麗な形の唇は微笑んだままだ。
面白がるような目つきに勇者の苛立ちが増す。
そのまま乱暴な足取りでテーブルを踏み越えると、勇者は勢いよく陛下のクラヴァットを掴んだ。馴染みのない感触だった。これが絹か。
「乱暴はおよしよ」
「うるさい」
座ったままの陛下が笑いの滲む声で抗議する。
強引に上向かされた顎の曲線も、さらりと黒髪が滑り落ちる首筋も完璧な美しさだ。暗い中でも仄白いその首筋に、勇者は一度は鞘に収めた短剣を突きつける。
「言ったでしょ。私はあんたを倒しに来た勇者よ」
少し手元が狂えばすぐに刃が白い肌に食い込む。
それでも陛下は愉快そうだ。
「聞いたよ。何度聞いても懐かしい響きだ…。昔は大勢来たものだよ、熊のような大男がね」
その点、君は踊り子のごとく美しい。
黙って勇者が首を絞める力を強めると、陛下はなおも笑い声を立てる。
「すまん。今のはセクハラか。年寄りは加減が分らんのだ。つい思ったことを口に出してしまう」
「余裕ね」
「そうかな…」
息苦しさに陛下の軽口が少し擦れる。
「余裕というのは…、いささか消極的な表現だな」
「…?」
わずかに眉を寄せた勇者の手―――短剣を握りしめる右手に、陛下はそっと自らの手を重ねた。
「どちらかというと、楽しい」
室内なのに、陛下の手はひんやりとしていた。
滑らかな感触で、傷跡もなければ剣だこもない。それでも勇者のそれよりは二回りほど大きく、関節が骨張っている男の手だ。
「この剣は故郷の村で鍛えたのか? 綺麗な光を宿している」
「な…っ」
最初はなんのつもりか分からなかった。
しかしすぐに気付いて勇者の顔が強ばる。
「…放して」
「手入れがいいのかな」
「ちょっと…あのっ」
「それとも、」
じんわりと、陛下の手が勇者の手ごと短剣を圧迫してきていた。
「使うのは今日が初めて?」
声の調子はなにも変わっていなかった。そう思って陛下の顔を見返した勇者は短く息を呑む。
月の光を集めたような黄金の瞳の真ん中で、瞳孔が細く尖っていた。
「やっ…」
混乱しながらも勇者はなんとか短剣を押し戻そうと抵抗したが、びくともしない。
白く上品な手からは想像できない力だ。
見る間に研ぎ澄まされた刃がひたりと首筋に押し当てられた。
「やだ…」
勇者の目に焦りが浮かぶ。
「やめてよ」
皮膚を破った感触はなかった。
ただ真っ赤な血が細い筋を描いたのを見て取って、
「…やめてよ!」
堪えきれずに勇者は悲鳴を上げた。
その声に陛下は苦笑すると、あっけなく手を放した。
力の抜けた勇者の手から滑り落ちた短剣は音もなく絨毯の上に落ちる。
短剣が手から離れた途端、ドッドッと心臓がすごい音を立てて動き出した。
「どうした?」
相変わらず陛下の声音に変化はない。
動揺した勇者はよろめくように半歩後ずさる。得体の知れない恐怖から逃れようと、もう半歩足を引くとローテーブルにぶつかった。
無様な様子が面白かったのか、陛下は鼻で笑った。
薄い表皮を一枚か二枚裂いただけの浅い傷を彼は白い指でおざなりに拭う。
「絶好の機会だったのに。お腹でも痛い?」
「…」
薄く開いた口元からは真珠色の犬歯が覗いていた。歌うような口調で、瑞々しい声で、辛辣に。
「腰抜けめ」
娘の怯えを笑う。
「倒すだと? 仕留める覚悟も持たずによく言う」
老獪な魔族の王の顔をして、この世の誰よりも美しい男はソファの背もたれに深く身を預けた。
一気に存在感が肥大化する―――まるで竜だった。
太い尾をほんの少し振れば、簡単に人を圧殺できると知っている強者の目差しだ。
『人間』は本能的に、血の濃い魔族に恐怖心を抱くようにできている。正面からの侮辱にも、勇者の唇からは震える吐息が漏れるだけだ。
怖い。
「…」
理解が追いつかない。
彼は今なにをしたのか。
拭ったときに付いたのか、陛下の首回りのレースはわずかに赤く染まっていた。
「なん、なんで…」
ようやくそれだけ呟いた瞬間だった。
「…?」
いきなり喉の奥から衝動がこみ上げてきたかと思うと、堪える間もなく勇者の目から涙が零れた。