直さんと天くん
天くんが、もう一つ行きたい場所があると言うので、遊園地を出てバスに乗った。
どこへ行くのか尋ねると、長い人差し指を唇に当てて、秘密です、と言う。
「直さんに見せたいものがあるんです」
バスが進むにつれて、民家や商業施設など建物の数が減っていく。
どこへ向かっているのか、バスはどんどん人里離れていく。
いつの間にか、窓から見える景色は木々に囲まれていた。
窓越しに暖かい午後の日差しを浴びていたら、眠くなってきた。
うとうとしていたら、耳元で天くんの声がした。
「直さん。直さん、起きて」
「ん、んん…?」
「窓、見て」
寝ぼけながら目を開けて、窓の外を見たら、一面の秋桜畑が広がっていた。
桃色、赤紫、白の秋桜の花が、絨毯のように隙間なく咲き誇っている。
あまりの美しさに眠気が吹っ飛んだ。
「うわ…すっごい…綺麗…!」
見せたいものって、これだったんだ…。
それはまるで、夢のように美しい景色だった。
バスを降りるなり、天くんがひゃっほー!と声を上げながら秋桜畑に飛び込んだ。
腰の高さまである秋桜の中を駆けていく。
おいおい、これ私有地だったりしないの?勝手に入って大丈夫なのか?
心配しながら天くんの後を追う。
けど、その心配も、満開の秋桜の花を見たら、すぐに忘れてしまった。
綺麗だなぁ…。
こんなところがあったなんて、全然知らなかった…。
「ほんと、夢みたいだな…」
私の呟きが聞こえたのか、天くんが少し離れたところで立ち止まって、振り返った。
そして、私を見て言った。
「直さん、僕、直さんが好きです」
「…それ、前にも聞いたけど…なんで?会ったばっかでお互いなんにも知らないのに。それとも、天くんは私のこと知ってるのか?」
私の問いに、天くんは笑った。
「直さん、夏目漱石の本名は金之助なんですよね」
突然何を言い出す?
「お、おお…」
戸惑いながら頷く私に、天くんは続けた。
「大学1年の春に、ゼミの課題で、夏目漱石を調べるために、大学の近くの図書館に行ったんです。
学内の図書館にある本は、同じゼミの子達に借りられちゃって、資料が足りなくて。
僕、それまで、あんまり図書館に行ったことなかったから、どうやって探したらいいのか、どこへ行ったらいいのかわからなくて、うろうろしてました。
それで、通りかかったお姉さんに声をかけたんです。
そのお姉さんは僕の話をちゃんと聞いてくれて、資料を探すの手伝ってくれて、親切に色々教えてくれたんです。それが、直さんでした」
忘れていた記憶が蘇る。
そういえば、司書をしてた最後の年にそんなレファレンスをした。
大学一年生の男の子で、ゼミの課題に使える資料を探しているのだが、図書館での調べ物に慣れてないから、どうやって調べたらいいかわからないのだと、たどたどしい口調で説明されたのを思い出す。
そうか、あのときの、あの子が、天くんだったのか。
あのときは、髪の色は胡桃色でストレートだった。
確か、赤と青のギンガムチェックのシャツを着て紺のジーンズを履いてた。
「僕の説明が下手でも、直さんはちゃんと話を聞いてくれました。一緒に夏目漱石の資料を探してくれて、中身がどんなのか、本を机に並べて一冊ずつ説明してくれました。どれが一番僕の課題に役立つか、一生懸命考えてくれました。僕、直さんが、これがいいと思うよって進めてくれたのを借りていきました。直さんが言った通り、その本、すっごく役に立ちました」
目頭が熱くなる。
実はあの頃、仕事が楽しくなくなってきて、早く辞めたいとばかり思っていたのだ。
上司と意見が合わず上手くいかなかったり、利用者からのクレームやトラブルの対応に追われて、毎日疲れていた。
この場所でこの仕事をするのは自分じゃなくたっていいじゃんって、不平不満で頭がいっぱいだった。
熱心だったのは、久々のレファレンスだったせいかもしれないが。
私、確かにあのとき一生懸命だった。
誰かのためになろうと、一生懸命やっていた。
そしてそれが、相手に、目の前にいるこの子に、ちゃんと届いていたのだ。
私、人のためになれたんだ…。
私みたいなやつでもちゃんとできたんだ…。
「それからは、直さんにまた会いたくて、図書館に通うようになりました。
直さんの姿を見る日もあれば全然見れない日もあって、会えた日はすっごく嬉しくて、会えないとがっかりして、明日は会えるかなって思って、また行くんです。
話しかけたかったけど、直さんいつも忙しそうだったし、勇気がなくて、できませんでした。
2年になって図書館に行ってみたら、直さんがいなくて、最初はお休みだと思ってたんですけど、一ヶ月通っても一日も見ないから、他の司書さんに聞いてみたんです。黒髪ふわふわのお姉さんはどうしたんですかって。そしたら退職したって言われて」
「その説明でよくわかったな…」
癖毛で緩くウェーブのかかった黒髪を額の真ん中で分けている髪型は、あの当時から変えていない。
天くんは私の言葉に、へらっと笑った。
「それで、市内の図書館全部探せば、どこかで会えるんじゃないかと思って、図書館をたくさん回りました。でも全然見つからなくて…」
驚いた。
たった一回、資料探すの手伝っただけなのに。
私のことなんて、何も知らないのに。
1年以上も私を忘れず、探し回ってたのか…。
「…同じ市内では3年以上は働けないんだよ」
「そうなんですか?あ〜、それでどこにもいなかったんですね…だから、直さんに会えたとき、すっごく嬉しかった。直さん全然変わらないから」
「そうかぁ?まぁ確かに、髪型は変わってないわな」
「僕、初めて会ったときからずっと、直さんが好きでした。ずっと、直さんのことが頭から離れなくて、また会いたくて、探してたんです」
秋桜の中を天くんは一歩一歩、私の元へ歩み寄ってくる。
「大好きです、直さん」
私の前まで来ると、天くんは身をかがめて、そっと触れるだけのキスをした。
唇がゆっくり離れる。
顔を離した天くんは、へへ、と無邪気に笑った。
私は顔を真っ赤にして、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「ろ、ロマンチックすぎるだろ…!」
秋桜畑でキス、なんて。
私の人生に、こんな、少女漫画やメロドラマみたいなことが起きるなんて、考えもしなかった。
「いや?きらい?」
こてん、と小首を傾げる天くん。
「いっ、嫌じゃない、けどさ〜…!天くん、やることがいっつも突飛なんだよ…!」
どこへ行くのか尋ねると、長い人差し指を唇に当てて、秘密です、と言う。
「直さんに見せたいものがあるんです」
バスが進むにつれて、民家や商業施設など建物の数が減っていく。
どこへ向かっているのか、バスはどんどん人里離れていく。
いつの間にか、窓から見える景色は木々に囲まれていた。
窓越しに暖かい午後の日差しを浴びていたら、眠くなってきた。
うとうとしていたら、耳元で天くんの声がした。
「直さん。直さん、起きて」
「ん、んん…?」
「窓、見て」
寝ぼけながら目を開けて、窓の外を見たら、一面の秋桜畑が広がっていた。
桃色、赤紫、白の秋桜の花が、絨毯のように隙間なく咲き誇っている。
あまりの美しさに眠気が吹っ飛んだ。
「うわ…すっごい…綺麗…!」
見せたいものって、これだったんだ…。
それはまるで、夢のように美しい景色だった。
バスを降りるなり、天くんがひゃっほー!と声を上げながら秋桜畑に飛び込んだ。
腰の高さまである秋桜の中を駆けていく。
おいおい、これ私有地だったりしないの?勝手に入って大丈夫なのか?
心配しながら天くんの後を追う。
けど、その心配も、満開の秋桜の花を見たら、すぐに忘れてしまった。
綺麗だなぁ…。
こんなところがあったなんて、全然知らなかった…。
「ほんと、夢みたいだな…」
私の呟きが聞こえたのか、天くんが少し離れたところで立ち止まって、振り返った。
そして、私を見て言った。
「直さん、僕、直さんが好きです」
「…それ、前にも聞いたけど…なんで?会ったばっかでお互いなんにも知らないのに。それとも、天くんは私のこと知ってるのか?」
私の問いに、天くんは笑った。
「直さん、夏目漱石の本名は金之助なんですよね」
突然何を言い出す?
「お、おお…」
戸惑いながら頷く私に、天くんは続けた。
「大学1年の春に、ゼミの課題で、夏目漱石を調べるために、大学の近くの図書館に行ったんです。
学内の図書館にある本は、同じゼミの子達に借りられちゃって、資料が足りなくて。
僕、それまで、あんまり図書館に行ったことなかったから、どうやって探したらいいのか、どこへ行ったらいいのかわからなくて、うろうろしてました。
それで、通りかかったお姉さんに声をかけたんです。
そのお姉さんは僕の話をちゃんと聞いてくれて、資料を探すの手伝ってくれて、親切に色々教えてくれたんです。それが、直さんでした」
忘れていた記憶が蘇る。
そういえば、司書をしてた最後の年にそんなレファレンスをした。
大学一年生の男の子で、ゼミの課題に使える資料を探しているのだが、図書館での調べ物に慣れてないから、どうやって調べたらいいかわからないのだと、たどたどしい口調で説明されたのを思い出す。
そうか、あのときの、あの子が、天くんだったのか。
あのときは、髪の色は胡桃色でストレートだった。
確か、赤と青のギンガムチェックのシャツを着て紺のジーンズを履いてた。
「僕の説明が下手でも、直さんはちゃんと話を聞いてくれました。一緒に夏目漱石の資料を探してくれて、中身がどんなのか、本を机に並べて一冊ずつ説明してくれました。どれが一番僕の課題に役立つか、一生懸命考えてくれました。僕、直さんが、これがいいと思うよって進めてくれたのを借りていきました。直さんが言った通り、その本、すっごく役に立ちました」
目頭が熱くなる。
実はあの頃、仕事が楽しくなくなってきて、早く辞めたいとばかり思っていたのだ。
上司と意見が合わず上手くいかなかったり、利用者からのクレームやトラブルの対応に追われて、毎日疲れていた。
この場所でこの仕事をするのは自分じゃなくたっていいじゃんって、不平不満で頭がいっぱいだった。
熱心だったのは、久々のレファレンスだったせいかもしれないが。
私、確かにあのとき一生懸命だった。
誰かのためになろうと、一生懸命やっていた。
そしてそれが、相手に、目の前にいるこの子に、ちゃんと届いていたのだ。
私、人のためになれたんだ…。
私みたいなやつでもちゃんとできたんだ…。
「それからは、直さんにまた会いたくて、図書館に通うようになりました。
直さんの姿を見る日もあれば全然見れない日もあって、会えた日はすっごく嬉しくて、会えないとがっかりして、明日は会えるかなって思って、また行くんです。
話しかけたかったけど、直さんいつも忙しそうだったし、勇気がなくて、できませんでした。
2年になって図書館に行ってみたら、直さんがいなくて、最初はお休みだと思ってたんですけど、一ヶ月通っても一日も見ないから、他の司書さんに聞いてみたんです。黒髪ふわふわのお姉さんはどうしたんですかって。そしたら退職したって言われて」
「その説明でよくわかったな…」
癖毛で緩くウェーブのかかった黒髪を額の真ん中で分けている髪型は、あの当時から変えていない。
天くんは私の言葉に、へらっと笑った。
「それで、市内の図書館全部探せば、どこかで会えるんじゃないかと思って、図書館をたくさん回りました。でも全然見つからなくて…」
驚いた。
たった一回、資料探すの手伝っただけなのに。
私のことなんて、何も知らないのに。
1年以上も私を忘れず、探し回ってたのか…。
「…同じ市内では3年以上は働けないんだよ」
「そうなんですか?あ〜、それでどこにもいなかったんですね…だから、直さんに会えたとき、すっごく嬉しかった。直さん全然変わらないから」
「そうかぁ?まぁ確かに、髪型は変わってないわな」
「僕、初めて会ったときからずっと、直さんが好きでした。ずっと、直さんのことが頭から離れなくて、また会いたくて、探してたんです」
秋桜の中を天くんは一歩一歩、私の元へ歩み寄ってくる。
「大好きです、直さん」
私の前まで来ると、天くんは身をかがめて、そっと触れるだけのキスをした。
唇がゆっくり離れる。
顔を離した天くんは、へへ、と無邪気に笑った。
私は顔を真っ赤にして、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「ろ、ロマンチックすぎるだろ…!」
秋桜畑でキス、なんて。
私の人生に、こんな、少女漫画やメロドラマみたいなことが起きるなんて、考えもしなかった。
「いや?きらい?」
こてん、と小首を傾げる天くん。
「いっ、嫌じゃない、けどさ〜…!天くん、やることがいっつも突飛なんだよ…!」