直さんと天くん

07

「あの、」

不意に背後から声がした。

「何かご用ですか」

振り向くと、高校生くらいの男の子が立っている。

「あ…もしかして兄の知り合い?」
「えっ??あ、いや、部屋を間違えたみたいで!失礼しやした!」

咄嗟に嘘を言ってしまった…。
つーか、しやしたってなんだ自分…。

逃げるように病室を出た。


兄って言ってたよな、あの子…。
ってことは天くんの弟か…。
色白にくるっとした大きな目。褐色の肌にアーモンドアイの天くんの顔とは対照的な印象だった。
似てねぇ兄弟だな…。


どこをどうやって歩いて来たのか記憶もなく、人気のない渡り廊下まで来ると、どっと疲れが押し寄せて、軽く目眩がした。
窓辺に置かれたソファーに腰掛ける。


…あの顔は。
ベッドの上に横たわり、意識がない状態で静かに眠っている、あの顔は。

確かに天くんだった。
私が知っている、舟橋天に間違いなかった。

じゃあ、ついさっきまで一緒にいた、隣でたい焼き食べてた、あれは。
私の手を取って駆け出し、忽然と姿を消した、あれは。

あれはいったい、誰?
今まで一緒にいた、あれは、誰なんだ?


「同姓同名のそっくりさんだったりして…いや、しないか…」

呟いて、頭を横に振った。
そっくりさんなんてレベルじゃない。
どう見たってあれは本人だった。
けど、本人なら説明がつかない。
昏睡状態の人間が自由に出歩けるわけない。

「幽体離脱、とか…?はは、まさかな…」

乾いた笑い声が渡り廊下に虚しく響いた。

でも、思い返してみれば天くんには不思議なところがあった。

神出鬼没。音もなく、気が付いたらそこにいる…
教えたこともないばあちゃんの家に来て、じいちゃんの幽霊と会話したり…
コンビニに強盗が来た時だって、強盗の母親のことを言い当てていたし…


不思議なことは今までいくつもあったのに、私ってやつは深く考えもせず「まあ、いっか」で済ませていたのだ…。

考えなさすぎだろ…私の馬鹿野郎…!
頭を抱えて蹲る。


遊園地に行った日、観覧車の中で何か言いかけてやめた天くんの表情が蘇る。
何か口に出せないことがあるんだろうとは感じていたけど、もしかしたらさっき見たことと関係あるのかもしれない…


そこまで思考を巡らせてからふと思いつく。

っていうか、本当にあれ、天くんだったか?
見間違えたんじゃないか?私の勘違いじゃないか?

突然そう思ってソファーから勢いよく立ち上がる。

もう一回病室に戻ってみたら、違う人だった!な〜んだやっぱり私の見間違いじゃん!とか、ならん!?ならんか!?

咄嗟に引き返そうとして足を踏み出す。
けど、一歩目で足が止まってしまった。


自分の勘違いを期待して戻って、やっぱり何も間違ってなかったら。


「そんなん、どうすりゃいいんだよ…」

呟いた声が思わず震えた。


少し前まで一緒にいた相手が、実はずっと昏睡状態だったなんて誰が信じられる?
わけがわからない。今起きていること、これはどういうことなんだ?
誰か、誰か教えてほしい。答えられる人がいるなら。


怖くて、病室には戻れなかった。


とにかく、とりあえず一旦家に帰ろう。
リビングでコーヒーでも飲んで、熱いシャワーでも浴びて、ベッドで眠ろう。
そうだ。そうそう。そうしよう。そしたら、なんか、きっと、なんとかなるはず。


正直なんとかなるとは到底思えないけども、一刻も早くこの場から離れたくて足早に病院を出た。


タクシーが中々捕まらなくて、もういいやと思って歩いて帰った。
少し歩いてバス停を見つけたらそれに乗ろうと思ったのに、なぜか立ち止まらず通り過ぎてしまった。
まだ気が動転しているみたいだ。


ひらっと、ふいに視界に紅色が舞い込む。
立ち止まった足元に落ちてきたのはひとひらの紅葉の葉だった。


灰色のアスファルトに鮮やかな紅色。
夢で見た血の色がフラッシュバックする。


「直さん」


聴き慣れた声に肩がびくっと跳ねた。
いつもは嬉しいのに今日に限って何か違った。心臓がどくどく鳴り出す。


恐る恐る顔を上げて、声のした方を向く。

深紅に色付いた紅葉の木を背に、天くんが佇んでいた。


「天くん…」
「さっきは…急にいなくなって、ごめんなさい…」

今にも泣き出しそうな悲しい顔と消えそうな声で天くんが言う。

「お、驚いたよ…突然いなくなっちゃったからさ……消えたんじゃないかって…そ、そんなことあるわけないよな!天くんは、足が速いんだよな!だろ?」
「直さん、僕、実は…」
「あっ、あのさっ、天くんって、弟がいるって言ってたけど、もう一人双子の兄弟とかいない?それかそっくりな親戚!ドッペルゲンガーかよってくらいそっくりな顔した……」


「見ちゃったんですね。僕が本当は今どうなってるか」


その言葉に、さーっと血の気が引いていく。

『僕が本当は今どうなっているか』、頭の中で反芻する。


視界の端に、力無く下りている天くんの手。


ああ、どうして気付かなかったんだろう。
夢で見たあの手は。


アスファルトの上、血の海に投げ出されていたあの掌は、天くんの手だったんだ。
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